「ヨハネス4世 (トレビゾンド皇帝)」の版間の差分

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'''ヨハネス4世'''(?-(Ιωάννης Δ', Iōannēs IV, ? - [[1458年]])は、[[トレビゾンド帝国]]の[[皇帝]](在位[[1429年]]-1458 - 1458年)。[[アレクシオス4世 (トレビゾンド皇帝)|アレクシオス4世]]の子。
{{kaimei|ノート:アレクシオス1世}}
'''ヨハネス4世'''は
#[[ニカイア帝国]]の[[皇帝]][[ヨハネス4世ラスカリス]]
#[[トレビゾンド帝国]]の皇帝。この項で述べる
#[[ローマ教皇]]ヨハネス4世は、[[ヨハネス4世 (ローマ教皇)]]の項を参照のこと。
 
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'''ヨハネス4世'''(?-[[1458年]])は、[[トレビゾンド帝国]]の[[皇帝]](在位[[1429年]]-1458年)。[[アレクシオス4世]]の子。
 
この頃になると[[オスマン帝国|オスマン朝]]の勢力が台頭し、トレビゾンド帝国は成す術も無い状況に追い込まれていた。[[1442年]]にはオスマン朝の[[スルタン]]・[[ムラト2世]]の侵攻を受けて帝国領は略奪を受ける有様であった。
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このため、ヨハネス4世はオスマン朝に対抗するため、サファービー教団長の[[ジュネイド]]や[[ローマ教皇]]・[[カリストゥス3世 (ローマ教皇)|カリストゥス3世]]、[[イスファンディヤル公国]]や[[カラマン君侯国]]の[[イブラヒム・ベイ]]と同盟を結び、さらに[[白羊朝]]の第2代皇帝・[[ウズン・ハサン]]と婚姻関係を結んで、オスマン朝と対抗した。このため、オスマン朝もヨハネス4世存命中はトレビゾンド帝国においそれと攻撃することが難しくなってしまったのである。
 
1458年死去。死後、オスマン朝の反撃が始まった。
 
ちなみに彼の孫娘はサファービー家に嫁ぎ、彼の曾孫は[[サファヴィー朝|サファーヴィー朝]]の初代皇帝となった[[イスマーイール1世]]にまでつながっている。
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先代<br>[[アレクシオス4世 (トレビゾンド皇帝)|アレクシオス4世]]
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[[Category:トレビゾンド帝国|よはねす4]]
[[Category:コムネノス家|よはねす4]]
[[Category:1458年没|よはねす4]]