「フナイン・イブン・イスハーク」の版間の差分

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'''フナイン・イブン・イスハーク'''(Hunayn ibn <nowiki>'</nowiki>Ishāq, أبو زيد حنين بن إسحاق العبادي, ''’Abū Zayd Ḥunayn ibn ’Isḥāq al-‘Ibādī'',Ishāq、[[808年]]頃-[[873年]]頃)は、[[バグダード]]に置かれた学術機関である「[[知恵の館]](バイト・アル=ヒクマ)」で活躍した学者。より詳しくはアブー・ザイド・フナイン・イブン・イスハーク・アル=イバーディー(أبو زيد حنين بن إسحاق العبادي, ''’Abū Zayd Ḥunayn ibn ’Isḥāq al-‘Ibādī'')といい、[[ラテン語]]名は Johannitius(ヨハンニティウス)。
 
==生涯==
[[ユーフラテス川]]沿いの[[ヒーラ]]に生まれた。[[ネストリウス派]]のキリスト教徒であった彼は、[[ギリシア語]]・[[アラビア語]]のほか[[シリア語]]にも通じており、9世紀のアッバース朝カリフである[[マームーン]]の時代に設けられた「知恵の館(バイト・アルヒクマ)」の主任翻訳官を務めた。彼のもとでネストリウス派キリスト教の知識人が集められ、古代の医学書や哲学書の翻訳が推進された。その中には[[プラトン]]の『国家論』や[[アリストテレス]]の『形而上学』、[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の『[[アルマゲスト|シュンタクシス]]』、[[ヒッポクラテス]]や[[ガレノス]]の医学書などが含まれた。翻訳にあたっては、[[ビザンツ帝国]]からも写本を購入して比較を行うなど、文献批判を通じて正確さにも留意した。こうした功績は、のちのアラブ人学者による研究の進展に大きく寄与することになった。
 
医学者としても活躍し、著書の『ガレノス医学入門』はラテン語訳され、中世ヨーロッパにも影響を与えている。