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日本の福岡県糸島市にある古代山城の跡
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新規記事、奈良時代の山城、九州北部防衛の拠点のひとつ
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2007年11月3日 (土) 11:42時点における版

怡土城(いとじょう)とは、8世紀奈良時代、福岡県福岡市と前原市との境にある高祖山の山腹西斜面に築かれた山城のこと。国指定史跡。

経緯

続日本紀によると、遣唐使一行に加わること2度留学し、その後大宰府政庁の高官となった吉備真備が、孝謙天皇の命により天平勝宝8年(756年)6月築城に着手。途中吉備が東大寺造営で佐伯今毛人と交代し神護景雲2年(768年)2月、完成されたとされる。 当時唐では、玄宗皇帝に対する「安禄山の乱」が勃発し、朝鮮半島では新羅が日本の国使との会見を拒否するなど、対外的な緊張が高まり九州の防備が急務となっていた。

構造

城の特徴は中国式山城の築城法でもってたすき状に築かれ、山の尾根づたいに望楼(物見やぐら)を配し、西麓の平地に面して高さ10m南北2kmにわたる土塁をもって固め、その間に城門や水門等を造り、敵襲に備えたとみられる。土塁の外側には幅15mの濠も確認されている。

現在遺構としては、高祖山の西裾に1.6kmの土塁、尾根線上に計8か所の望楼跡が残るものの、城内はどのように利用されたか、いつごろ廃城となったか等不明な点が多い。

その他

その後、戦国時代地元の豪族、原田種継が城郭を再利用して中世山城の高祖城を築城した。

2007年の発掘によると、小石を詰めた堀が土塁の内側に配していたことがわかった。山の斜面からの雨水で土塁が決壊しないように排水した設備と見られ、大陸の山城築城にはない独自の工夫とみられる。

関連項目