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==カトリックにおける原罪観==
[[カトリック教会]]の[[カテキ]]は原罪について次のように述べている。
<blockquote>「人間は悪の誘惑を受け、神の信頼を裏切り、自らの自由を不正に行使して、神の命令に従わなかった。人間は神の命令に従わないことで、自らの良さを貶める結果となった。…人類の一体性により、全ての人はアダムの罪を引き継ぐことになったが、それと同じようにすべての人間はイエスの義をも受けつぐことができた。どちらにせよ、原罪も神秘であり、人間はそれを完全に理解することはできない。」</blockquote>
 
このように、原罪とはまず第一に神の主権へのさからいであること、つまりアダムが神に従うのでなく自分自身によって、本来神にしか判断できない問題である何が善で何が悪かを判断しようとしたことであると考えられている。禁断の木の実とは単に神の指示のたとえにすぎない。また、神はアダムに直接命令していることから、本来このさからいの罪はイヴでなくアダムの責任に帰するものである。
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中世において[[スコラ学]]の[[神学者]]たちは原罪がアダムから後の世界へと[[生物学]]的な意味でも引き継がれたと考えた。こうして原罪は人間の本性を悪に傾けるようになった。これらの神学者たちは魂は神によって[[受精卵]]の中に入れられるが、そのとき原罪の汚れを受けるという考えを持っていた。[[聖母マリア]]の[[無原罪の御宿り]]という思想は、このような原罪の汚れがマリアにはなかったということを示すために生まれた。
 
ローマ・リック神学においては、[[洗礼]]をとおして信仰者が第二のアダムであるキリストに属するようになる時、この原罪は取り除かれるとしている。カリック神学においては、聖化、また、煉獄における浄化<!--(聖書には見出されない教え?)-->を必要とされるのは、洗礼を受けた後に犯した罪の咎の問題である。
 
==他のキリスト教諸派における原罪理解==
[[カルヴァン主義]]の[[予定説]]では、原罪は人間の[[全的堕落|完全堕落]]をもたらしたと考える。カルヴァン主義における原罪の特徴は、原罪を「赦されるべき罪科」ではなく「聖化されるべき罪への衝動」と捉えていることで、よって人間は洗礼によって自分の罪の咎めが赦されても、原罪・罪への傾き易さとの信仰の戦いはその後も続くとされていることにある。
 
[[ウエスレアン・アルミニアン神学|ウェスレー・アルミニウス主義]]の[[聖化 (プロテスタント)|聖化]]論では、アダムの末裔の「[[全的堕落]]」に関してはカルヴァン主義と同じ立場に立ちつつ、原罪あるいはアダム以来の生来の堕落性・罪への傾き易さは、全的聖化の瞬時的経験において、聖霊によってキリストの血潮が信仰によって当てはめられることによって、解決されると説く。[[ジョン・ウェスレー|ウェスレー]]は、原罪・生来の堕落性は心霊上の問題で、必ずしも肉体のもつ特質ではないので、肉体がその魂と分離する肉体の死のときまで待つ必要はないとしている。「生来の堕落性」とは異なる、いわゆる「取得的堕落性」・その人の過去との関連における罪への傾き易さとの戦い、また、そのきよめの必要は、その性質上、生涯的なものであると理解される。