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清水氏5代の清水義高は、本合海(現[[新庄市]]本合海)の戦いで、武藤義増の軍勢と戦って討ち死にすると、その跡を継いだ6代
清水義氏は娘を[[最上義光]]の側室に差し出して関係を強化、さらに最上義光の3男を養子として迎え入れ、7代[[清水義親]]となった。余談ながら、大蔵村の由来は、清水義親が'''大蔵大輔'''であったことに由来する。しかし、清水義親は清水氏の養子となる以前に、[[豊臣家]]に近習として仕えていたことがあり、その縁で[[豊臣秀頼]]の覚えめでたか交わていた。これが後年に悲劇となる。
 
[[慶長]]18年(1613年)、[[徳川家康]]と[[豊臣秀頼]]との対立が決定的になると、最上家は、密書により徳川家康ら東軍諸将から清水義親と豊臣家との内通を疑われてしまう。最上義光の死後、その家督を継いだ実兄の最上家親は、疑いを晴らすために弟である清水義親の追討を決断し、翌慶長19年(1614年)に清水城を攻めて落城させる。清水義親は、13歳であった嫡子義継ともども切腹させられ、十三歳の少年であるが切腹させられ、ここに清水家は滅亡、清水城は廃城となった。