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'''森田 草平'''('''もりた そうへい'''、[[明治]]14年([[1881年]][[3月19日]] - [[昭和]]24年([[1949年]][[12月14日]])は、[[作家]]・[[翻訳家]]。本名'''森田 米松'''。[[夏目漱石]]の門下生の一人であるが、特に私生活での不祥事が多かったことから、門下生の中では異色の存在として扱われることが多い。
 
[[岐阜県]][[方県郡]]鷺山村(現・[[岐阜市]])生まれ。[[攻玉社中学校・高等学校|攻玉社]]から[[日本学園中学校・高等学校|日本中学校]]を経て[[第四高等学校 (旧制)|第四高等学校]]に入学するが、女性問題を起こして退学処分を受ける。その後[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]に入り直し、明治29年([[1896年]]に[[東京帝国大学]]英文科を卒業。卒業後、岐阜に帰郷するが夏目漱石の『[[草枕]]』に感銘を受け妻子を郷里に置いて上京、漱石の元へ足繁く通う傍ら[[与謝野鉄幹]]が主宰する[[閨秀文学]]講座で講師を務める
 
卒業後、岐阜に帰郷するが夏目漱石の『[[草枕]]』に感銘を受け妻子を郷里に置いて上京、漱石の元へ足繁く通う傍ら[[与謝野鉄幹]]が主宰する[[閨秀文学]]講座で講師を務める。この講座に聴講生として通っていた[[平塚らいてう]]と関係を持ち、明治41年([[1908年]]に[[栃木県]][[塩原]]で[[心中]]未遂事件を起こす。この心中未遂の後始末として翌年[[小説]]『[[煤煙]]』を[[朝日新聞]]に連載(この連載には漱石の配慮があったと言われている)し、これが彼の[[文壇]]デビューとなる。
 
その後、[[野上豊一郎]]の紹介で[[大正]]9年([[1920年]]に[[法政大学]][[教授]]。しかし昭和9年([[1934年]]に学内紛争から野上と対立し、[[関口存男]]らの革新派教授や卒業生と共謀、野上はじめ教授多数(中には漱石門下以来の友人の[[内田百閒]]もいた)を大学から追放したものの、結果翌年に自身も大学を去ることになる。

その後は『吉良家の人々』『[[細川ガラシャ|細川ガラシヤ夫人]]』などの歴史小説を著す一方で[[ヘンリック・イプセン|イプセン]]・[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]・[[ミゲル・デ・セルバンテス|セルバンテス]]・[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ|ダヌンツィオ]]・[[ジョヴァンニ・ボッカッチョ|ボッカチオ]]などの翻訳を手がけた。
 
最晩年は[[日本共産党]]に入党し、話題をまいた。