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'''斯波 兼頼'''(しば かねより、[[正和]]4年([[1315年]]) - [[康暦]]元年/[[天授]]5年[[6月5日_(旧暦)|6月5日]]([[1379年]][[7月21日]]))は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の武将。[[奥州探題]][[斯波家兼]]の次男であり、[[羽州探題]][[最上氏]]の祖。'''最上兼頼'''ともよばれる。竹寿丸。出羽大将。修理大夫。
 
[[越前国]]に逃れた[[新田義貞]]とも父家兼、伯父[[斯波高経|高経]]とともに戦い、彼の配下が義貞を討ち取ったと言われている。源氏累代の名刀、[[鬼切]]は彼の手に渡り最上氏の[[家宝]]となった。家兼が北陸地方から奥州地方に移ると、兼頼も共に奥州に下向する。[[延文]]元年([[1356年]])、[[出羽|出羽地方]]の[[北朝 (日本)|北朝]]方として[[南朝 (日本)|南朝]]方([[寒河江氏|寒河江大江氏]]、[[山家氏]]など)の抵抗を抑えるために、[[出羽国|出羽]]羽前地方山形に入部し、今の[[山形城]]の基となる城を築いた。[[1367年]]に[[鎌倉公方]]の[[足利基氏]]が死去した後、出羽を含む東国の各地で南朝方が蜂起したが、兼頼は[[漆川の戦い]]において、鎌倉公方を継いだ[[足利氏満]]や、兄で[[奥州探題]]の[[斯波直持]](大崎直持)と共に南朝方の寒河江大江氏を攻撃し降伏させた。また、近隣の[[天童氏]]([[里見氏]]の一族)に弟の[[天童義宗|義宗]]を養子に送り、一門とするなど武力政策と婚姻・養子政策を駆使し、山形斯波氏(後の最上氏)の基礎を築いた。兄の直持は[[奥州管領]]家の[[大崎氏]]の祖となった他、弟の[[斯波持義]]、[[斯波将頼]]らも奥州に子孫を残したとされ、足利の名家という出自を思わせる。
 
後の子孫である最上氏は、[[江戸時代]]に[[江戸幕府|徳川幕府]]によって[[改易]]されるまで、今の、[[山形県]]内陸部の[[米沢市|米沢地方]]を除く、[[村山地方]]、[[最上地方]]を支配した。