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[[宝くじ]]で自転車を手にしたことがきっかけで自転車競技生活をスタートさせた。父親は正真正銘の自転車選手にさせたいという願いから、ルシアン・ブルトンという自転車競技選手がいたことにちなんで、ルシアン・プティブルトンというニックネーム(芸名)と名づけた。したがって自転車競技選手としてはその名称で登録された。
 
プティブルトンは当時アルゼンチンでは有名な[[トラックレース]]で優勝を経験。[[1902年]]にフランス[[軍隊|軍徴兵]]に応召されを受けたことから、母国・フランスへ戻ることに。そして母国へ戻って自転車競技生活を続けることになった。2年後の[[1904年]]に、24時間耐久のトラックレースである、ボルドールレース([[:en:Bol d'Or cycle race]])を制覇。[[1905年]]には41.110kmを走りぬいて[[トラックレース#アワーレコード|アワーレコード]]を樹立した。そして同年、プティブルトンは[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]のキャリアをスタートさせた。
 
===ツール・ド・フランス連覇達成===
 
プティブルトンは、1905年の[[ツール・ド・フランス]]に初出場し、総合5位。翌[[1906年]]は総合4位に入った。[[1907年]]のツールでは、第9、11ステージを制し、第10ステージより[[ツール・ド・フランス#マイヨ・ジョーヌ|マイヨ・ジョーヌ]]を得たが、そのまま最後まで守り通して初の総合優勝。翌[[1908年]]のツールにおいても、区間4勝を挙げ、第3ステージより総合首位に躍り出るやそのまま押し切り、ツール・ド・フランス史上初の総合2連覇を達成した。
 
===悲劇の最期===