「ローマ帝国」の版間の差分

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|元首等年代始1 =前27年
|元首等年代終1 =14年
|元首等氏名2 =[[ロムルス・アウグストゥス]]
|元首等年代始2 =475年
|元首等年代終2 =476年
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|変遷1 =[[アクティウムの海戦]]
|変遷年月日1 =前31年9月2日
|変遷2 =[[オクタィアヌス]]が[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]]の尊称を戴く
|変遷年月日2 =前27年1月16日
|変遷3 =[[ディオクレティアヌス]]が領土を東西に分割
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|変遷5 =[[西ゴート族]]がローマに侵入。[[ラヴェンナ]]に遷都
|変遷年月日5 =410年
|変遷6 =[[ロムルス・アウグストゥス]]が[[オドアケル]]により廃位される
|変遷年月日6 =476年
|通貨 = [[ソリドゥス]]、[[アウレウス]]、[[デナリウス]]、[[セステルティウス]]、[[アス]]
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<!--保留したコメントの代替-->なお、ローマ帝国という名称を名乗る国家は[[1453年]]の[[オスマン帝国]]による[[コンスタンティノープルの陥落]]まで存続しているが、7世紀以降の東ローマ帝国はギリシア系住民が多い地域を支配していたために[[古代ローマ]]時代に比べてギリシア文化の影響力が強くなり、古代以来の統治機構がイスラムの侵攻などによって崩壊したことなどから、[[ヘレニズム]]と[[ローマ法]]、[[正教会]]を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に入っているため、単に「ローマ帝国」と言ったときには含めず、[[476年]]の西ローマ帝国の滅亡を以ってローマ帝国の終焉とするのが一般的である。
 
ただし、西ローマ滅亡後もコンスタンティノポリスの皇帝が名目上全ローマ帝国の皇帝とされており、[[東ローマ帝国]]では[[古代末期]]のローマ帝国の政治経済の体制が数百年にわたって継続されていた。
 
== 帝政の開始 ==
[[Image:Imperium Romanum.png|250px|left|thumb|青及び緑は帝国最大版図、青は後の東ローマ帝国の最大版図、赤線は東西分割線]]
ローマ帝国の起源は、[[紀元前8世紀]]中ごろに[[イタリア半島]]を南下した[[ラテン人]]の一派が[[テヴェレ川]]のほとりに形成した[[都市国家]]ローマである([[王政ローマ]])。当初は[[エトルリア人]]の王を擁いていたローマはこの異民族の王を追放して[[王政]]を経た後に、貴族による[[共和政]]を布いており、た。共和政下では2名の[[執政官|コンスル]]を国家の指導者としながらも、コンスル経験者などが在籍する[[元老院 (ローマ)|元老院]]が圧倒的な[[権威]]を有しており国家運営に大きな影響持ってい与えた([[共和政ローマ]])。
 
都市国家ローマは次第に力をつけ、中小独立自営農民を基盤とする重装歩兵部隊を中核とした市民軍でイタリア半島の諸都市国家を統一、さらに地中海に覇権を伸ばして広大な領域を支配するようになった。[[紀元前1世紀]]には[[ローマ市民権]]を求めるイタリア半島内の諸同盟市による反乱([[同盟市戦争]])を経て、イタリア半島内の諸都市の市民に市民権を付与し、狭い都市国家の枠を越えた帝国へと発展していった。
 
「[[内乱の一世紀]]」と呼ばれる動乱の時期を経て、ローマは次第に元老院支配体制から有力な個人による統治へと性質を変化させた。[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]や[[グナエウス・ポンペイウス|ポンペイウス]]などの有力者たちが権力を握った[[三頭政治]]の後、カエサルが共和派と結んだポンペイウスを戦場にて撃破し、全ての実権を握った。元老院共和派によりカエサルが暗殺された後、その養子[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]は、第2次三頭政治を経て[[マルクス・アントニウス]]と[[プトレマイオス朝]][[エジプト]]の[[クレオパトラ7世]]を[[アクティウムの海戦]]にて撃ち破りと続く戦いで打倒し、長きにわたる混乱を収拾した。[[紀元前27年]]オクタウィアヌスは元老院より「[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]](尊厳なる者)」の称号を受け、最初の「[[皇帝]]」となった。これより後を帝政ローマという。
 
以降、帝政初期の[[ユリウス・クラウディウス朝]]の世襲皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず、表面的には[[共和制]]を尊重して[[元首プリンケプス]](元首)としてふるまった。これを「'''[[プリンキパトゥス]]'''」([[元首政]])と呼ぶ。彼らが即位する際には、まず軍隊が忠誠を宣言した後、元老院が形式的に新皇帝を元首に任命した。皇帝は代々次のような称号と権力を有した。
 
* 「[[カエサル]]」と「[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]]」の称号。
* 「[[インペラトル]]」(凱旋将軍、軍最高司令官)の称号とそれに伴う全軍の最高指揮権(「エンペラー」の語源)。
* 「[[プリンチェプス]]」(市民の中の第一人者)の称号。これは事実上の皇帝としての地位を指すものであった。
* 「[[最高神祇官]]」の職。
* 全[[属州]]総督の任命権。さらに、直轄領として、エジプトを直接支配する権限。
* 「[[護民官|護民官職権]]」を実際に護民官には就任していないにもかかわらず行使する権利。これには身体の不可侵権に加え、元老院への議案提出権やその決議に対する拒否権などが含まれており、歴代皇帝はこの権限を利用して国政を自由に支配した。
 
これらに加え、皇帝たちは必要な場合[[執政官]]や[[ケンソル]]などの共和上の職に就任することもあった。さらに、皇帝たちには「国家の父」などの尊称がよく送られた。また歴代皇帝は死後に神格化されることも少なくなかった。
 
== 五賢帝の時代 ==
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** 「至高の皇帝」。最大領土を現出。東は[[メソポタミア]]、西は[[イベリア半島]]、南は[[エジプト]]、北は[[ブリテン島]]にまでおよんだ。
* 117年 - [[138年]] [[ハドリアヌス]]
** 全属州を視察。内政の整備と、ブリタニアの[[ハドリアヌスの長城]]に代表される防衛体制の確立に努めた。
* 138年 - [[161年]] [[アントニヌス・ピウス]]
** 財政の健全化に努めた。
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いわゆる「元首政」の欠点は、元首を選出するための明確な基準が存在しない事である。そのため、反乱の増加に伴って、軍隊が強権を持ち皇帝の進退を左右した。約50年間に26人の皇帝が入れ替わるようになり、これを「軍人皇帝」と呼んでいる。
 
[[パクス・ロマーナ|パクス・ローマーナ]](ローマの平和)により、戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、代わりに[[コロヌス]](土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。この労働力を使った[[小作]]制の'''[[コロナートゥス]]'''が発展し始めると、人々の移動が減り、商業が衰退し、地方ごとの自立が促進された。
[[Image:The-tetrarchs.jpg|right|250px|thumb|四分割統治を表す像。[[1204年]]に[[第4回十字軍]]によって陥落した[[コンスタンティノポリス]]から[[ヴェネツィア]]に持ち出されたもの]]
[[284年]]に最後の[[軍人皇帝時代|軍人皇帝]]となった[[ディオクレティアヌス]](在位:[[284年]]-[[305年]])は混乱を収拾すべく、帝権を強化した。元首、つまり終身大統領のような存在であった皇帝を、本物オリエントような専制君主にしたのである。これ以降の帝政を、それまでのプリンキパトゥス(元首政)に対して「'''[[ドミナートゥス]]'''([[専制君主制]])」と呼ぶ。また'''[[テトラルキア]]'''(四分割統治)を導入した。四分割統治は、二人の正帝([[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]])と副帝([[カエサル]])によって行われ、ディオクレティアヌス自身は東の正帝に就いた。強大な複数制度外敵より面した結果、皇帝以外の将軍の指揮する大きな軍団が必要とされたが、そうした軍団はしばしば皇帝に反乱を起こした。テトラルキアは皇帝の数を増やすことでこの問題を解決し、帝国は一時安定を取り戻したが、ディオクレティアヌスのもうひとつの策であった[[キリスト教]]迫害は失敗し、彼の死後、帝国は再び混乱した。
 
ディオクレティアヌス後の混乱を収拾して再び単独の皇帝となった[[コンスタンティヌス1世]]([[大帝]]。在位:副帝[[306年]]-、正帝[[324年]]-[[337年]])は、キリスト教の勢力と妥協し、[[313年]][[ミラノ勅令]]を公布してキリスト教を公認した。後の[[テオドシウス1世]](在位:[[379年]]-[[395年]])のときには[[国教]]に定められた([[380年]])。
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== 関連項目 ==
* [[古代ローマ]]
* [[共和ローマ]]
* [[SPQR]]
* [[東ローマ帝国]]
187行目:
* [[元老院属州]]
* [[ローマ建築]]
* [[ベン・ハー]]
 
== 参考文献 ==