「セプティミウス・セウェルス」の版間の差分
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== 生涯 ==
=== 前半生 ===
ルキウス・セウェルスは、[[レプティス・マグナ]]の裕福な[[エクィテス]](騎士階級)の家に生まれそして育った。父(プブリウス・セプティミウス・ゲタ)は[[ポエニ戦争]]
セウェルスのキャリアは[[マルクス・アウレリウス]]帝の治世下であった170年に首都ローマでの[[ク
=== 皇帝即位と対抗勢力との戦い ===
{{main|内乱期 (192年-193年)}}
[[コンモドゥス]]帝暗殺後にローマ皇帝へ即位した[[ペルティナクス]]帝が193年に[[親衛隊 (ローマ帝国)|親衛隊]]によって殺害され、元老院は[[ディディウス・ユリアヌス]]の皇帝即位を承認したが、セウェルスはそれを認めず、軍団兵による推挙という形式を採って自ら皇帝を僭称した。セウェルスは同じ時期にやはり皇帝を僭称した[[ブリタンニア]]総督の[[クロディウス・アルビヌス]]と同盟を結んで(共同皇帝としてカエサルの称号を与えて)後顧の憂いを断った後に、ローマ市へ進軍してユリアヌスとの対決姿勢を明確とした
ローマ占領から10日も経たない内に、ペルティナクス殺害後にやはり皇帝即位を僭称していた[[シリア
[[画像:Severan dynasty - tondo.jpg|thumb|170px|セウェルス家(右上:セウェルス、左上:ユリア・ドムナ、右下:カラカラ、左下:ゲタ(カラカラにより削除)]]
=== 皇帝として ===
199年、セウェルスはパルティアを討伐する為、オリエント遠征を行い、パルティアの首都[[クテシフォン]]を陥落させて、メソポタミア北部をローマ属州に組み込んだ([[パルティア戦争|第6次パルティア戦争]])。パルティア戦争を終えて帰国した後、セ
ローマ元老院とは、セウェルスがアルビヌスを支援したとして何十人もの元老院議員を殺害した上で欠員に自身の取巻きを据えたり、息子([[カラカラ]]、[[プブリウス・セプティミウス・ゲタ|ゲタ]])をマルクス・アウレリウスの養子とする為、[[コンモドゥス]]の[[記録抹殺刑]]も撤回させる等関係は決して良くは無かった(一方でコモドゥスの記録抹殺刑撤回によってアウレリウス家の知遇は得た)。
セウェルスは軍事面での改革を行い、軍団数は30で維持したものの、軍団兵の賃上げと待遇改善(除隊までは認めていなかった結婚を軍籍にあった時期でも承認等)によって質的な向上を図った。セ
セウェルスは同郷の[[ガイウス・フラ
=== ブリタンニアでの死 ===
208から、セウェルスは[[カレドニア]]人討伐の為に[[ブリタンニア]]遠征を行い、[[ハドリアヌスの長城]]を越えてブリタンニア北部(現:[[スコットランド]])までカレドニア人を追い込んだが、病に倒れてエボラクム(現:[[ヨーク]])で没した。
[[カッシウス・ディオ]]によると、セ
セ
== 評価・その他 ==
セ
一方で、セ
== 参考文献 ==
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