「セプティミウス・セウェルス」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 前半生 ===
ルキウス・セウェルスは、[[レプティス・マグナ]]の裕福な[[エクィテス]](騎士階級)の家に生まれそして育った。父(プブリウス・セプティミウス・ゲタ)は[[ポエニ戦争]]期に北イタリアへ移住したイタリア本土出身者でその後アフリカの現地人と混血し土着化した家系、母(フラヴルウィア)は生粋のローマ家系であったとされる。父プブリウスは裕福ではあったものの、特に重要な職に就いたという記録は無い。
 
セウェルスのキャリアは[[マルクス・アウレリウス]]帝の治世下であった170年に首都ローマでの[[クエストル]](会計検査財務官)から始まった。172年に[[ヒスパニア・バエティカ]]、173年に[[サルデーニャ|サルディニア]]、174年に北アフリカで夫々勤務。176年、30歳で[[護民官]]に選出された後、セウェルスは[[元老院]]議員としての資格も得た。180年、マルクス・アウレリアヌスの死後暫くは公職から外れて[[アテナイ]]の[[アカデメイア]]で学ぶなど充電の日々を過ごしたが、187年[[ガリア・ルグドゥネンシス]]属州の総督に就任(この頃に[[ユリア・ドムナ]]と結婚)、191年[[パンノニア|近パンノニア]]総督となった。
 
=== 皇帝即位と対抗勢力との戦い ===
{{main|内乱期 (192年-193年)}}
[[コモドゥス]]帝暗殺後にローマ皇帝へ即位した[[ペルティナクス]]帝が193年に[[親衛隊 (ローマ帝国)|親衛隊]]によって殺害され、元老院は[[ディディウス・ユリアヌス]]の皇帝即位を承認したが、セウェルスはそれを認めず、軍団兵による推挙という形式を採って自ら皇帝を僭称した。セウェルスは同じ時期にやはり皇帝を僭称した[[ブリタニア]]総督の[[クロディウス・アルビヌス]]と同盟を結んで(共同皇帝としてカエサルの称号を与えて)後顧の憂いを断った後に、ローマ市へ進軍してユリアヌスとの対決姿勢を明確とした。しかし、ユリアヌスもペルティナクス同様に[[親衛隊]]により殺害された為、セウェルスは無血でのローマ占領を果たし、元老院から皇帝即位を認められた(この時はアルビヌスとの共同皇帝)。なお、この際に当時あった親衛隊を解散させて、セウェルスの子飼いであったパンノニア兵から選抜して親衛隊を新たに結成し、[[アルバーノ・ラツィアーレ]]に駐屯させた。
 
ローマ占領から10日も経たない内に、ペルティナクス殺害後にやはり皇帝即位を僭称していた[[シリア]]属州]]総督の[[ペスケンニウス・ニゲル]]を討伐する為、セェルス自ら東方へ親征。194年に行われた[[イッソスの戦い (194年)|イッソスの戦い]]でセウェルスはニゲル軍を撃破し、ニゲルを敗死させた。なお、194年にアルビヌスと共に[[コンスル]](執政官)に選出された。195年、[[パルティア]](ニゲルを密かに支援していたとされる)牽制の為に[[ユーフラテス川]]畔まで進軍したが、交戦前に撤退。197年、セェルスが息子[[カラカラ]]を自らの後継者と発表したことを口実として、セウェルスに対してローマで唯一の対抗し得る勢力であったアルビヌスがセウェルスに叛旗を翻した。セェルスはアルビヌスとルグドゥヌム(現:[[リヨン]])近郊で戦い、共に10万人以上を擁した軍勢が激突したとされる激闘の末、セェルスが勝利を収めた。
 
[[画像:Severan dynasty - tondo.jpg|thumb|170px|セウェルス家(右上:セウェルス、左上:ユリア・ドムナ、右下:カラカラ、左下:ゲタ(カラカラにより削除)]]
=== 皇帝として ===
199年、セウェルスはパルティアを討伐する為、オリエント遠征を行い、パルティアの首都[[クテシフォン]]を陥落させて、メソポタミア北部をローマ属州に組み込んだ([[パルティア戦争|第6次パルティア戦争]])。パルティア戦争を終えて帰国した後、セェルスはローマに[[セプティミウス・セェルスの凱旋門]]を建造した。
 
ローマ元老院とは、セウェルスがアルビヌスを支援したとして何十人もの元老院議員を殺害した上で欠員に自身の取巻きを据えたり、息子([[カラカラ]]、[[プブリウス・セプティミウス・ゲタ|ゲタ]])をマルクス・アウレリウスの養子とする為、[[コモドゥス]]の[[記録抹殺刑]]も撤回させる等関係は決して良くは無かった(一方でコモドゥスの記録抹殺刑撤回によってアウレリウス家の知遇は得た)。
 
セウェルスは軍事面での改革を行い、軍団数は30で維持したものの、軍団兵の賃上げと待遇改善(除隊までは認めていなかった結婚を軍籍にあった時期でも承認等)によって質的な向上を図った。セェルスは独裁志向を改めなかったが、コモドゥス治世下のモラル低下と汚職・腐敗の蔓延を知るローマの市民からは一定の人気を得ていた。
 
セウェルスは同郷の[[ガイウス・フラウィウス・プラウティアヌス]]を重用して親衛隊の長官にも任命し、プラウティアヌスの娘(プラウティッラ)もカラカラへ嫁がせた。セウェルスが信頼することからもプラウティアヌスは有能であったが、プラウティアヌスはセェルスとの密接な関係と親衛隊長官としての地位を嵩に横柄な態度であった。カラカラはプラウティアヌスを疎んじており、セウェルスの目前でプラウティアヌスを殺害した。
 
 
=== ブリタニアでの死 ===
208から、セウェルスは[[カレドニア]]人討伐の為に[[ブリタニア]]遠征を行い、[[ハドリアヌスの長城]]を越えてブリタニア北部(現:[[スコットランド]])までカレドニア人を追い込んだが、病に倒れてエボラクム(現:[[ヨーク]])で没した。
 
[[カッシウス・ディオ]]によると、セェルスは最期の間際に'''「元老院議員、コンスル、将軍そして皇帝と全ての国家の役職につき、全てにおいて十分な成果を残した。しかし、今思えばその全てが無駄であったようだ」'''と言い遺したとされる。
ェルスの死後、カラカラおよびゲタが後任の皇帝に共同で即位し元老院によって承認された。
 
== 評価・その他 ==
ェルスが軍隊重視へと傾いたことは[[ゴート族]]等の北方ゲルマン人の侵略が常態化していたローマにとって必要な措置であるとローマ市民からも一定の評価を得ていた。
一方で、セェルスと同じ時期のカッシウス・ディオや[[ヘロディアヌス]](シリアの歴史家)からは軍隊への維持費用の増大による財政負担が重くなったことを指摘。また、[[エドワード・ギボン]]はセェルスをローマ衰亡の元凶と手厳しい評価を下した。
 
== 参考文献 ==