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Kinori (会話 | 投稿記録)
鎌倉時代に陸奥国宮城郡にいたとされる武士
 
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'''国分 胤茂'''(こくぶん たねもち、[[建久]]8年([[1197年]])? - [[仁治]]3年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]([[1242年]])11[[122215]])?)は、日本の[[鎌倉時代]]に[[陸奥国]][[宮城郡]]にいたとされる武士である。[[国分氏 (陸奥国)|陸奥国の国分氏]]第2世の当主とされるが、実在しない可能性がある。
[[国分氏 (陸奥国)|陸奥国の国分氏]]は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]まで陸奥国宮城郡南部を領した武士で、下総国の国分から氏をとった[[国分胤通]]が宮城郡国分を[[奥州合戦]]の恩賞として与えられて移住したのがはじまりだと伝える。江戸時代に仙台藩の[[佐久間義和]]が編纂した系図では、胤茂は[[国分胤長]]の子、胤通からは孫にあたり、母は[[東胤頼]]の女。平直常の女を妻として男子2人、女子2人を儲けた。男子は[[国分胤重]]と茂晴。女子はそれぞれ武石安泰と武藤頼国の妻になった。
 
胤茂の幼名は国寿丸。小太郎と名乗り、従五位下、美濃守を官位にした。建久8年([[1197年]])国分に生まれ、仁治3年([[1242年]])11月22日に46才で死んだ。父が早く死んだため祖父の後を継ぎ、[[承久]]3年([[1221年]])に[[征夷大将軍]][[藤原頼経]]から奥州の[[主政]]に補せられたという。
 
ただし、国分胤通が陸奥国国分荘を与えられたというのは陸奥国側の系図にだけ見えることで、奥州合戦後に下総で胤通が活動した記録があり、子孫も残している。下総側で作られた系図に胤長・胤茂の名はない<ref>2000年刊『仙台市史』通史編2、220頁。</ref>。系図作者が陸奥の国分氏を鎌倉御家人の国分胤通に結びつけたのではないかとみる説<ref>2000年刊『仙台市史』通史編2、221頁</ref>からすれば、胤茂は系図をつなぐために作られた人物ということになる。そうでなくとも、国分胤通が陸奥で恩賞を得ながら下総に留まったとみる説はもとより、胤通の移住まで肯定する説も、系図の詳細を信用しているわけではないので<ref>佐々木慶市「古代中世の仙台地方」231頁。</ref>、胤茂の実在性にはやはり疑問が残る。
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[[Category:国分氏 (陸奥国)|たねもち]]
[[Category:鎌倉時代の武士]]
[[Category:1197年生]]
[[Category:1242年没]]