「チャブイ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
蔭人 (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
m 画像の追加と諡号。
1行目:
[[Image:B Yuan Dynasty Empress Cheboer of Shizu.JPG|thumb|right|250px|チャブイ皇后]]
'''チャブイ'''('''Čabui''', ? - [[1281年]])は、[[モンゴル帝国]]([[元 (王朝)|元]])の[[ハーン|大ハーン]](カアン)、世祖[[クビライ]]の皇后。漢字表記は察必、[[集史]]のペルシア語表記で چابون خاتون Chābūn khātūn として表れる。
 
[[コンギラト]]部族の出身で、父のアルチ・ノヤンは[[チンギス・ハーン]]の第一夫人[[ボルテ]]の弟である。伯母ボルテの孫にあたるクビライと結婚し、夭折したドルジと、後にクビライ政権で活躍する[[チンキム]]、[[マンガラ]]、[[ノムガン]]の4子を産んだ。
 
チャブイはハーン一族の姻族としてモンゴル帝国の中でも特に有力な部族の出であり、実家のコンギラト部族をはじめとする五投下と呼ばれる部族集団は、兄である皇帝[[モンケ|モンケ・ハーン]]によって[[中国]]の経略を委ねられたクビライを支えて活躍した。特に同母姉が嫁いだ[[ジャライル]]部の[[ムカリ]]の子バアトルはクビライの腹心となり、[[1259年]]のモンケ死後のクビライのハーン位奪取に功があった。また、チャブイ自身、その宮廷([[オルド]])に[[アフマド・ファナーカティー|アフマド]]ら有能な商人を個人的な用人に集めて利殖を行い、財産を蓄えて勢力があった。
 
[[1271年]]にクビライが樹立した元では、次男のチンキムが燕王、三男のマンガラが安西王、四男のノムガンが北平王に封ぜられ、それぞれが中国北部、中国西部、[[モンゴル高原]]を分担して統治した。中央政府ではチンキムが行政機関である[[中書省]]と軍政機関の[[枢密院]]を統括し、さらにバアトル夫妻の子でチャブイの甥にあたる[[アントン (ジャライル部)|アントン]]が中書省の長官となった。加えてクビライによって新設された財務部局の長官としてチャブイの用人であるアフマドが抜擢され、元の政権中枢部にチャブイの縁者によって占められるようになった。このような状況を指して、王朝とはチャブイを扇の要とするコンギラト政権であったと評価する歴史家もいる。
 
やがて、中央政府で実権を握るチンキムの権勢が高まり[[1273年]]に[[皇太子]]の称号を与えられるが、同時にチャブイには[[皇后]]の印璽が与えられた。この頃、帝国の財務部門を握り、中書省の勢力をアントンと二分するアフマドの権勢も高まり、その党派がチンキム・アントンのもとに集まった[[モンゴル]]貴族・[[漢民族|漢人]]官僚と反目を深めていくが、両者の接点としてチャブイがあったために、対立は決定的なものにはならなかった。
 
1281年のチャブイが死ぬと、たちまちチンキム派とアフマド派の反目は激化し、翌年にはアフマドの暗殺に至る。
 
[[1294年]][[2月18日]]([[至元]]三十一年一月癸酉)にクビライが没し同年6月3日(五月戊午)に聖德神功文武皇帝と諡され廟号を世祖とすると、チャブイも昭睿順聖皇后と追諡を受けた。
 
{{DEFAULTSORT:ちやふい}}