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[[631年]]、許王に封ぜられた。[[637年]]、江王に徙封され、[[蘇州]][[刺史]]に任ぜられ、実封八百戸を受けた。[[649年]]、実封は千戸まで加増された。[[高宗 (唐)|高宗]]のとき、金州・鄜州・[[鄭州]]の刺史を歴任した。性格は貪欲で、金宝を蒐集し、利殖に飽きることがなかった。ときに滕王[[李元嬰]]・蒋王[[李惲]]・虢王[[李鳳]]らはみな貪欲暴虐であって、王府の官にある者はかれらを嫌って行きたがらず、「儋州・崖州・振州・白州に流されたとしても、江王・滕王・蒋王・虢王に仕えたくはない」と言っていた。元祥の体はたいへん大きく、腰帯は十人分の長さで、食事は数人分を平らげた。当時韓王[[李元嘉]]・虢王李鳳・魏王[[李泰]]もまた体が大きかったが、元祥には及ばなかった。また元祥は片眼がすがめであったと伝えられる。[[680年]]、世を去ると、[[司徒]]・[[并州]]大都督の位を追贈され、[[献陵]]に陪葬された。[[諡]]を安といった。
 
子に李・李皎・李昕・李晧・李炅・李晃・李暹の7子がいた。李は永嘉王に封ぜられ、復州刺史となったが、禽獣の行いがあったとして、処刑された。李皎は武陽王に封ぜられた。李昕は任国公に封ぜられた。李晧は義興郡公に封ぜられた。李炅は広平郡公に封ぜられた。李晃は鉅鹿郡公に封ぜられた。
 
 
== 伝記資料 ==
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* 『[[新唐書]]』巻七十九 列伝第四「江王元祥伝」
 
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[[Category:680年没|りけんしよう]]