李淵
李 淵(り えん、566年4月7日 - 635年6月25日)は、唐の初代皇帝。隋末の混乱の中で太原で挙兵し、長安を落として根拠地とした。そこで隋の恭帝侑を傀儡として立て、禅譲により唐を建国した。李淵は在位9年の間王世充などの群雄勢力と戦い、また律令を整備した。626年に太宗(李世民)に譲位させられ、太宗が残存の群雄勢力を一掃して唐の天下統一を果たした。
高祖 李淵 | |
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唐 | |
初代皇帝 | |
![]() 唐高祖李淵(『社会歴史博物館』より) | |
王朝 | 唐 |
在位期間 |
武徳元年5月20日 - 武徳9年8月9日 (618年6月18日 - 626年9月4日) |
都城 | 長安 |
姓・諱 | 李淵 |
字 | 叔徳 |
諡号 | |
廟号 | 高祖 |
生年 |
天和元年3月2日 (566年4月7日) |
没年 |
貞観9年5月6日 (635年6月25日) |
父 | 李昞 |
母 | 元貞太后独孤氏(独孤信の四女) |
后妃 | 竇皇后(没後に追封) |
陵墓 | 献陵 |
年号 | 武徳 : 618年 - 626年 |
来歴編集
出生編集
李淵の一族の出自は史書では、五胡十六国の西涼の武昭王李暠の末裔で、隴西郡成紀県を本貫とする隴西李氏の漢人を自称している。李淵の一族は大野(だいや)氏という胡姓を持つが、ある学説では「実際は鮮卑系の出自で本来の姓も大野氏であり、中原の支配権を正当化するために自身が漢人の末裔であることを主張した」[1]あるいは「武川鎮出身で鮮卑国粋主義復興の風潮が強かったから、元は漢人だったのが鮮卑化した」[注釈 1]といった説が主流である[2]。中国の歴史のなかで、唐は経済的・文化的繁栄の頂点に達し、その啓蒙的な政策と開放的な社会風習は前代未聞である。それは、唐室李氏が鮮卑であり、「外来の蛮族の血液が、崩壊した中国文化の体内に注ぎ込まれた」ことが未曾有の繁栄を生んだと考えられている[3]。唐室李氏の出自については数多の論争があり、漢人の名門貴族の隴西李氏と主張しているが、疑問も多く、信憑性はないが、史書の記載通り隴西李氏と固く信じている人、趙郡の李氏の没落した家系と推測している人、夷狄、就中塞外から中原に移住した夷狄と考える人など様々である。唐室李氏の出自がどうであれ、高祖・太宗・高宗三代の母はすべて鮮卑であり、鮮卑の血統を引いていることは事実であり、南北朝から隋にかけて民族の大統合がおこなわれ、胡族と漢人が混血した結果、複雑な血統の人が多くなった[3]。
李淵は北周の唐国公・安州総管を務めた唐仁公李昞の子として生まれた。その出自である隴西李氏は北周の八柱国の家系で、かつて北魏においては皇后を出す資格のある家柄の一つとして重んじられた北朝の名門だった。李淵が隋の文帝の信任を得るきっかけとなったのは、その独孤皇后が李淵の叔母にあたることによる。
隋の唐公編集
李淵はまず隋の千牛供身となり、譙隴二州刺史・岐州刺史・滎陽楼煩二郡太守・殿内少監・衛尉少卿などを歴任した。
文帝の後に煬帝が立って高句麗遠征を開始すると、李淵は懐遠鎮で兵站を監督した。やがて楊玄感の乱が起こると弘化留守となり、関右の諸軍を統率して楊玄感の進軍を防いだ。615年に山西河東慰撫大使に任じられると、龍門の母端児の乱を掃討、また絳州の柴保昌を討伐した。突厥が隋の辺境を侵すと、馬邑郡太守の王仁恭とともに突厥軍を撃退した。617年には太原留守に任じられた。
次男の李世民や晋陽令の劉文静らの使嗾により[注釈 2]、隋に対する反乱を決意。6月に諸郡に檄を飛ばして起兵し、一気に軍を南下させ、11月には長安(当時は大興城)を陥れた。また煬帝の太上皇帝への退位を宣言し、首都長安の留守を命じられていた代王楊侑を新たに擁立して隋の恭帝とした[4]。加えて618年3月には恭帝の詔として相国への昇進と九錫の下賜を受けたが、これに対し李淵は「これは私に阿り諂う者の差し金であろう。魏・晋の建国者らは上辺だけを取り繕って天や人を欺き、その実は五覇にも及ばないにも拘らず三王以上の名声を欲した。常々これを軽蔑していた私が、なぜ奴らと同じ真似ができよう」と述べ、相国の座のみを受諾し、九錫の贈呈を固辞した[5]。
即位後編集
618年5月、煬帝が殺されたことを知ると、恭帝から禅譲を受けて自ら皇帝となった。この頃洛陽でも隋の武将だった王世充が即位して鄭を建国、河北では群盗の竇建徳が一大勢力を築き、長江以南では後梁の末裔である蕭銑が梁再興、群雄割拠の様相を呈していた。その後李世民らの活躍もあり、626年の退位までに梁師都以外の群雄を平らげるまでになった。
その後、統一戦に著しい戦功を上げた秦王李世民に次の皇帝を期待する秦王配下の者たちが、皇太子の座を狙って策動するようになった。これに対して皇太子李建成と斉王李元吉はこれを止めるために高祖李淵に世民の謀士である房玄齢と杜如晦を引き離すよう進言した。
しかし李世民は李建成と李元吉が画策した先制攻撃の情報を入手すると、626年の玄武門の変で李建成と李元吉を殺害した。高祖李淵はこれを受けて直ちに李世民に譲位することに同意して太上皇となり隠退をせまられた。その後は政治とは離れた環境で静かに暮らし635年、71歳で崩御した[6]。
対仏教政策編集
高祖は唐朝の創業当初、仏教に対してはその存在を容認する立場を取り、また法会も行なっている。また、唐の正統性を擁護するような慧化尼と衛元嵩の予言詩を隋からの受禅に利用したことも『大唐創業起居注』の中に見える。武徳3年(620年)には、1月・5月・9月の三長斎月に刑死を執行せず、また殺生の禁断を命ずるほど、仏教の不殺生戒の周知に努めていた。
しかし翌武徳4年(621年)になると隋代に建立された諸寺院を廃止し、洛陽城内には名徳ある僧30名、尼30名のみをとどめ、その他は還俗させている。
さらに武徳9年(626年)には太史令傅奕の十一箇条の上奏文の内容に基づいて、高祖は仏教と道教をともに廃毀する詔を発した。それは40余年前に北周の武帝が衛元嵩の上表文をもとに仏道二教を廃したのを彷彿とさせる措置だった。その詔によれば、徳行ある僧尼や道士女冠は大寺や大観に住せしめて、その他の者は還俗させ、長安には寺3か所、道観2か所を残し、天下の諸州にも各1か所を残して、その他はことごとくく廃毀させることを求めた。しかし同年6月4日の玄武門の変によって高祖は退位したため、詔の内容が実施に移されることはなかった。
諡号編集
崩御後に大武皇帝と贈られたが、後に高宗により神堯皇帝に改められ(674年)、続いて玄宗により神堯大聖皇帝(749年)、さらに同じく玄宗により神堯大聖大光孝皇帝(754年)と改称された。
系図編集
北周武帝 | 北周宣帝 | 北周静帝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宇文泰 | 北周孝閔帝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北周明帝 | 皇后楊麗華 (隋楽平公主) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北周明敬皇后 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北周襄陽公主 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
竇夫人 | 李建成 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
竇毅 | 李世民 (唐太宗) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
李虎 | 李昞 | 李玄霸 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
李淵 (唐高祖) | 李元吉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
独孤氏 | 唐平陽公主 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
独孤信 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
隋文献皇后 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
楊勇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
隋文帝 | 隋煬帝 | 楊昭 | 隋恭帝侑 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃子女編集
后妃編集
- 竇皇后(没後に追封)
- 万貴妃
- 尹徳妃
- 宇文昭儀(宇文述の娘)
- 貴嬪莫麗芳、楊貴嬪(楊寛の子の楊文紀の娘)
- 嬪崔商珪[7]、孫嬪、楊嬪(楊素の娘)、小楊嬪、張嬪
- 張婕妤、郭婕妤、劉婕妤、薛婕妤(薛道衡の娘)
- 張美人、楊美人
- 王才人、魯才人
- 宝林張寵則[8] 、柳宝林
男子編集
太字は没後の追諡・封贈・追贈[9]。
- 息王 李建成 - 母 竇皇后(暗殺後、高宗のときはじめ息王を封贈、のち隠太子を追贈)
- 皇太子 李世民 - 母 竇皇后(李建成暗殺後に立太子、高祖退位をうけて即位、廟号は太宗)
- 李玄霸 - 母 竇皇后(高祖即位前に早世、高宗のとき衛王を封贈)
- 斉王 李元吉 - 母 竇皇后(暗殺後、高宗のときはじめ海陵郡王を封贈、のち巣王を追贈)
- 楚王 李智雲 - 母 万貴妃
- 荊王 李元景 - 母 莫貴嬪
- 漢王 李元昌 - 母 孫嬪
- 酆王 李元亨 - 母 尹徳妃
- 周王 李元方 - 母 張婕妤
- 徐王 李元礼 - 母 郭婕妤
- 韓王 李元嘉 - 母 宇文昭儀
- 彭王 李元則 - 母 王才人
- 鄭王 李元懿 - 母 張宝林
- 霍王 李元軌 - 母 張美人
- 虢王 李鳳 - 母 楊美人
- 道王 李元慶 - 母 劉婕妤
- 鄧王 李元裕 - 母 崔嬪
- 舒王 李元名 - 母 小楊嬪
- 魯王 李霊夔 - 母 宇文昭儀
- 江王 李元祥 - 母 楊嬪
- 密王 李元暁 - 母 魯才人
- 滕王 李元嬰 - 母 柳宝林
女子編集
- 長沙公主 -(母不詳)馮少師に降嫁
- 襄陽公主 -(母不詳)竇誕に降嫁
- 平陽公主 - 母 竇皇后、柴紹に降嫁
- 高密公主 -(母不詳)はじめ琅邪公主、のち高密公主に改封、はじめ長孫孝政に降嫁、のち段綸に再嫁
- 長広公主 -(母不詳)はじめ桂陽公主、のち長広公主に改封、はじめ趙慈景に降嫁、死別後楊師道に再嫁
- 房陵公主 -(母不詳)はじめ永嘉公主、のち房陵公主に改封、はじめ竇奉節に降嫁、のち賀蘭僧伽に再嫁
- 常楽公主 -(母不詳)趙瓌に降嫁
- 九江公主 -(母不詳)執失思力に降嫁
- 廬陵公主 -(母不詳)喬師望に降嫁
- 南昌公主 -(母不詳)蘇勗に降嫁
- 安平公主 -(母不詳)楊思敬(楊雄の子の楊縯の子)に降嫁
- 淮南公主 -(母不詳)封道言(封倫の子)に降嫁
- 真定公主 -(母不詳)崔恭礼に降嫁
- 衡陽公主 -(母不詳)阿史那社爾に降嫁
- 丹陽公主 -(母不詳)薛万徹に降嫁
- 臨海公主 -(母不詳)裴律師(裴寂の子)に降嫁
- 館陶公主 -(母不詳)崔宣慶に降嫁
- 千金公主 -(母不詳、武則天養女)はじめ千金公主、のち安定公主に改封、はじめ温挺(温彦博の子)に降嫁、死別後鄭敬玄に再嫁
- 長沙公主 -(母不詳)はじめ万春公主、のち長沙公主に改封、豆盧懐譲(豆盧通の子の豆盧寛の子)に降嫁
李淵の出自に関する論争編集
1930年代になると、馮承鈞(北京大学)が李淵の祖父の李虎の兄の名が「李起頭」、弟の名が「李乞豆」、「李起頭」の息子の名が「李達摩」というおよそ漢人とは考えられない胡族名であることから李淵は出自を詐称しており、実際は胡族ではないのかと主張し[10]、劉盼遂(北京師範大学)と王桐齡(清華大学)は、李淵は拓跋であると主張した[11]。劉盼遂と王桐齡の李淵の拓跋説の根拠は以下である。
- 漢人の名門貴族・隴西の李氏を称している唐皇帝一族は好んで塞外民族と婚を通じている。太宗 - 長孫皇后(鮮卑)、代宗 - 貞懿独孤皇后(鮮卑)、高宗 - 宇文昭儀(妾、鮮卑)、李承案(敦煌郡王) - 回纥公主(突厥)、万春公主(高祖の娘) - 豆盧懐譲(鮮卑)、房陵公主(高祖の娘) - 賀蘭僧伽(鮮卑)、九江公主(高祖の娘) - 執失思力(突厥)、衡陽公主(高祖の娘) - 阿史那社爾(突厥)、李麗質(太宗の娘) - 長孫沖(鮮卑)、東陽公主(太宗の娘) - 高履行(鮮卑)、安康公主(太宗の娘) - 獨孤諶(鮮卑)、新興公主(太宗の娘) - 長孫曦(鮮卑)、新城公主(太宗の娘) - 長孫詮(鮮卑)、建平公主(玄宗の娘) - 豆盧建(鮮卑)、真陽公主(玄宗の娘) - 源清(鮮卑)、信成公主(玄宗の娘) - 独孤明(鮮卑)、宿国公主(粛宗の娘) - 豆盧湛(鮮卑)、蕭国公主(粛宗の娘) - 葛勒可汗(突厥)、鄭国荘穆公主(徳宗の娘) - 張茂宗(奚)、咸安公主(徳宗の娘) - 合骨咄禄毘伽可汗(突厥)、襄阳公主(順宗の娘) - 張克禮(奚)、虢国公主(順宗の娘) - 王承系(契丹)、梁国恵康公主(憲宗の娘) - 于季友(鮮卑)、太和公主(憲宗の娘) - 崇徳可汗(突厥)、廣德公主(宣宗の娘) - 于琮(鮮卑)。
- 吐谷渾、烏桓、突厥、匈奴、鮮卑などの古代北方遊牧民の婚姻制度は族外婚であり、所属する氏族や集団間の社会的結合である。男性の家族に嫁いだ女性は、男性の氏族の一員となるため、男性が亡くなると、女性を氏族内に留めるために収継婚をおこなう[12]。収継婚とは、男性が亡くなると、その寡婦は義子の妻となるか(例えば、呼韓邪単于を亡くした王昭君は、匈奴の習慣に倣い、義子にあたる復株累若鞮単于の妻になって、二女を儲けた)、亡夫の弟に娶られる(レビラト婚)か、亡夫の甥の妻となるかを選択する[13]。しかし、収継婚は儒教では近親相姦にあたり、漢代以降の漢人社会では厳しく禁止されており、禁を破った燕王劉定国(父の妾と姦淫し、弟の妻を妾とし、自らの3人の娘と姦淫した)は、「定國禽獸行、亂人倫、逆天、當誅。(禽獣と変わらぬ行い、人倫を乱し天に逆らう)」として武帝から誅殺された[14]。しかし、太宗は弟の妻(楊氏)を娶り、高宗は父の妾(武照)を娶り、玄宗は息子(李瑁)の妻(楊貴妃)を娶るなど古代北方遊牧民の習俗である収継婚をおこなっている。
- 唐代に劉餗が著した『隋唐嘉話』には、隋末、王世充の将軍・単雄信が、戦場で李淵の子である李元吉と遭遇した時に李元吉を「胡兒」と呼んだと記録されている。また、『旧唐書』李元嬰伝には、李淵の曾孫である李涉を「狀貌類胡而豐碩」と記録しており、明らかに胡族の外見的特徴をもっている。
- 鮮卑語に対して当時の漢人が激しい嫌悪感を抱いていることは、『顔氏家訓』のなかの注目すべき一節によくあらわれているが、宮廷内では、漢人が激しい嫌悪感を抱いている鮮卑語を「国語」として、唐代入ってもしばらく使用している。
齊朝有一士大夫,嘗謂吾曰:「我有一兒,年已十七,頗曉書疏,教其鮮卑語及彈琵琶,稍欲通解,以此伏事公卿,無不寵愛,亦要事也。」吾時俛而不答。異哉,此人之教子也! 若由此業,自致卿相,亦不願汝曹爲之。
— 顏氏家訓
1930年代の中国では、隋室楊氏および唐室李氏の男系が鮮卑であるか否かが盛んに議論された。この背景として、日本軍が中国侵略を開始した国難の時期に日本の学者が隋室楊氏および唐室李氏は鮮卑であると示唆したことがある。中国人にとって唐は中国史上最も輝かしい時代のひとつであるため、隋室楊氏および唐室李氏が鮮卑であることを認めた場合自国史の誇りを減じることになる。このため中国の学者は隋室楊氏および唐室李氏が鮮卑であることを受け入れることができず、唐室李氏の男系は漢人、すなわち、隴西李氏あるいは趙郡李氏とすることを余儀なくされた[15]。例えば、陳寅恪は、唐室李氏の祖先は、もともと山東の趙郡李氏であると主張したが、この主張は万人に受け入れられておらず、高等教育出版社『中国史』は、唐室李氏が山東の趙郡李氏という主張が「特記」で記されており、学界の一般的見解ではなく、陳寅恪の個人的見解であることを示唆している、という指摘がある[15]。
陳俊偉(国立台湾大学)は、権力者にとって、民が権力者の本当の先祖を受け入れることができず、出自故に民心が離れることほど恐ろしいことはなく、唐王朝は、あまりにも巨大な王朝であったため、漢人に対する支配の正統性を確保するために漢人のふりをする必要があり、唐李氏が史料の編纂を支配し、儒学者たちは遊牧民に支配されていることを恥じ、結果として関連する史料が抹殺されたが、そのような欠陥のなかでも、不注意に史料に記載された内容から、遊牧民の血統を読み取ることができ、「唐王朝の王族は中原の『よそ者(外來者)』であったことは事実である」と述べている[16]。
陳寅恪は、論文「李唐氏族之推测」の序文「李唐自称西凉后裔之可疑」という節において、「李唐自称为西凉李暠后裔,然详检载记,颇多反对之证据。(唐室李氏は、西涼の李暠の子孫を自称しているが、記録を詳細に調べると、それに反する証拠が多くある」と述べている[17]。
陳舜臣は、「唐王朝の李氏も、西魏八柱国の家柄で、隋王朝の楊氏とおなじように、鮮卑姓を賜わったといわれています。李氏がもらったのは、大野という姓でした。楊氏とおなじように、これも本来の姓であろうという疑いが濃厚です。いずれにしても、南北を統一した隋もその継承者の唐も、おなじく北方系の王朝で、皇室からして鮮卑系の可能性があります」と述べている[18]。
謝選駿は、唐室李氏は本来鮮卑の出自であり、漢姓を賜与された可能性が高いと主張しており、陳寅恪は著書『唐代政治史述論稿』『隋唐制度淵源略論稿』において、唐室李氏は西涼の初代王李暠の子孫、あるいは隴西の李氏ではなく、鮮卑拓跋政権の北魏の支配下にあった河北省の趙郡の李氏であり、唐室李氏の祖先には「漢姓・鮮卑名」をもつ李初古抜と李買得の二人がおり、唐室李氏の祖先は本来漢人で鮮卑名を賜与されたか、もしくは本来鮮卑で漢姓を賜与されたかのどちらかだと結論付けた[19]。唐室李氏は鮮卑であり、漢姓を賜与されたとする主張の根拠は、北魏の中原進出後の漢化政策により、鮮卑に漢姓を賜与されたという事実に基づいており、『魏書』によると、北魏帝室の拓跋氏はを元氏に改姓し、拓跋の八大部落・勛臣八姓に漢姓を賜与するなど鮮卑の複合姓を漢姓の単一姓に変更するのが一般的であり、『魏書』は、当時鮮卑に賜与した118の漢姓を記録している。また孝文帝は、しばしば漢姓を賜与した「漢姓・鮮卑名」の者に対して漢名を賜与しており、穆泰はもとの名は「石洛」であったが、孝文帝は「泰」を賜与しているが、漢人に対して鮮卑名を賜与した記録はないため、唐室李氏の祖先の李初古抜と李買得は、本来漢人で鮮卑名を賜与されたのではなく、本来鮮卑で漢姓を賜与されたとみるのが自然である[19]。さらに、当時は漢化の潮流の時代であるため、漢人に対して鮮卑名を賜与された可能性はさらに低く、『魏書』には、鮮卑達闍部(=大野部)に李姓を賜与したと記録されており、唐室李氏の祖先である李初古抜と李買得は鮮卑達闍部(=大野部)である可能性が高い[19]。また、仮に唐室李氏の祖先が漢人であっても、祖先は久しく鮮卑の住地だった武川鎮に住み、鮮卑と通婚し、ほとんど鮮卑に同化しているため、鮮卑姓「大野」を姓として使用した、と指摘している[19]。
氣賀澤保規は、李淵の祖父である李虎は、武川鎮出身で、西魏建国の中心である八柱国の一人であり、武川鎮の国境防衛を長く担当し、一時期「大野」という胡姓を名乗っていたことから、唐室李氏は隋室楊氏と同じく北族鮮卑か、あるいは北族に近い漢人のどちらか、と述べている[20]。
西魏のとき、550年ころに成立していた西魏の常備軍の編制に二十四軍があり、そのうちの二軍を大将軍が、四軍を六人の柱国大将軍が統率した。柱国大将軍のメンバーは、宇文泰、李虎(唐の高祖李淵の祖父)、元欣、李弼、独孤信、趙貴、于謹、侯莫陳崇であるが、宇文泰と元欣は直接二十四軍は統率しない。八人の柱国大将軍は、大司徒・大宗伯・大司馬・大司寇・大司空・少師・少傅という西魏の『周礼』風の最高官職をもっており、当時において門閥といえばこの八柱国の家をいうのだと『周書』に明記されている。また、宇文泰、元欣、独孤信、于謹、侯莫陳崇は鮮卑であり、宇文泰、李虎、独孤信、趙貴、侯莫陳崇は武川鎮の人である[21]。大将軍のメンバーは、元賛、元育、元廓、宇文導、侯莫陳順、達奚武、李遠、豆盧寧、宇文貴、賀蘭祥、楊忠(隋文帝の父)、王雄である。十二大将軍はいずれも大都督で州刺史を兼ね、家柄は八柱国につぐものとみなされ、元賛、元育、元廓、宇文導、侯莫陳順、達奚武、豆盧寧、宇文貴、賀蘭祥は鮮卑であり、元賛、元育、元廓は西魏の皇族であり、侯莫陳順は八柱国の一人の侯莫陳崇の兄で武川の人であり、達奚武は北魏の皇族である[21]。以上から、鮮卑と明証のない人は、八柱国では、李虎、李弼(隋末反乱期の英雄李密の曾祖父)、趙貴の三人であるが、このうち李虎と趙貴はその祖先が武川鎮に移っている。十二大将軍のうち、李遠、楊忠、王雄が鮮卑の明証がないが、楊忠はその祖先が武川に移っており、李遠は隴西成紀の人というが、その祖父は高平鎮に移っており、王雄は太原の王氏という漢人の名門を称しているが、字は胡布頭といい、漢人らしくない名をもち(漢人の字は二字が普通)、太原王氏を仮託しているとみられる[21]。したがって、八柱国は鮮卑か武川鎮の人が根幹を形成し、十二大将軍も鮮卑で大部分が構成されているなかに、楊忠と李虎が含まれているのであり、しかもいずれも武川に移ったことが明らかである以上(武川鎮軍閥は、北魏に対する北方からの侵略に対抗するための首都防衛の第一線であるため、北魏の根幹を構成する鮮卑拓跋部の人たちが中心になって勤務していた[22])、隋室楊氏が弘農華陰の楊氏といい、唐室李氏が隴西狄道、もしくは隴西成紀の人と称していたとしても、これを純粋の漢人とみなすことはできない。また、八柱国の一人の独孤信は、その長女を宇文泰の子の宇文毓に嫁がせ、また四女を李虎の子の李昞に嫁がせ、さらに七女を十二大将軍の一人の楊忠の子の楊堅に嫁がせており、これはいずれものち北周、隋、唐の王朝を形成したのでたまたま判明しているが、八柱国十二大将軍家はいずれも婚姻関係によってもかたく結ばれていたろうと推定される[21]。
一般に非漢人出自の人々が漢人の名族の出身に仮託することはよくみられる現象であるが、それとは反対に漢人が夷狄の出自を称することはまずない[23]。唐室李氏は、漢人の名門貴族・隴西李氏を称しているが、同様に漢人の名門貴族・隴西李氏を称していた人物に折衝府である昌利府の折衝都尉を務めていた李永定がおり、李永定は隴西李氏を称していたが[24][25]、実際は仮託であり、契丹人であることが判明している[26]。
脚注編集
注釈編集
出典編集
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- ^ 『唐代墓誌彙編続集』上海古籍出版社〈隋唐五代墓誌匯編〉、2001年、634-636頁。"〔李〕公、諱永定、隴西人也。……曽祖延、皇朝本蕃大都督兼赤山州刺史。祖大哥、雲麾将軍・左鷹揚大将軍兼玄州刺史。……父仙礼、寧遠将軍・玄州昌利府折衝。……公即寧遠君之長子也。……以開元伍載、襲父寧遠将軍・右衛昌利府折衝。……貮拾壹載、節度使薛楚玉差公領馬歩、大入、斬獲俘級不可勝書。制授忠武将軍・左衛率府中郎将、仍襲伯父青山州刺史。"。
- ^ 森部豊 (2019年4月). “唐代営州における契丹人と高句麗人” (PDF). 関西大学東西学術研究所紀要 (関西大学東西学術研究所): p. 45. オリジナルの2021年12月13日時点におけるアーカイブ。
参考文献編集
登場作品編集
- 『新・少林寺』(1999年、中国、演:陳友旺)
- 『創世の龍 〜李世民 大唐建国記〜』(2006年、中国、演:リウ・ウェンジ)
- 『皇帝 李世民〜貞観の治〜』(2006年、中国中央電視台、演:馬精武)
- 『淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)』(2007年、ソウル放送、演:チェ・ジュボン)
- 『隋唐演義 〜集いし46人の英雄と滅びゆく帝国〜』(2013年、中国、演:寇振海)
- 『大唐見聞録 皇国への使者』(2018年、中国、演:李光復)