「ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス」の版間の差分
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'''ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス'''(
===経歴===▼
[[トリブヌス・ミリトゥム]]を勤めた後に[[紀元前193年]]に[[アエディリス]]に選ばれ、そして[[紀元前191年]]に[[プラエトル]]に、その官職の際に[[ヒスパニア]]のルシタニア人に対して[[紀元前189年]]まで戦いを繰り広げる。[[コンスル]]には[[紀元前182年]]に就任、翌年[[プロコンスル]]として[[リグーリア州|リグリア]]に出征する。父は同名の[[ルキウス・アエミリウス・パウルス]]。
[[マケドニア戦争]]の際、彼は[[紀元前168年]]に再度コンスルに選ばれ、[[アンティゴノス朝]]の[[ペルセウス (マケドニア王)|ペルセウス]]に対して戦い、ペルセウスを捕虜とする。これによりマケドニア戦争は集結、アンティゴノス朝は滅亡した。この際にマケドニア内の対抗勢力500人を虐殺、多数をローマに強制連行、財産をローマの名のもとに没収した。しかしながら[[プルタルコス]]の言では、自分自身の取り分を多くしたと言う。紀元前167年にローマへの帰還の際にも彼の配下の者は略奪品の少なさに不平をもらしており、彼はそこで親マケドニアと目されていたエピルスに滞在、すでに配下の者の不平はおさまってはいたが、彼は周囲の70もの集落を攻撃、陥落、住民達を奴隷とし、地域を焦土と化した。
パウルスがローマに戻ると、マケドニア、エピルスで山積みになった略奪品、そして捕虜ペルセルス自身を披露し凱旋式を敢行する。この功績を讃えて、元老院は彼に
彼は二度結婚しており、自分の息子は養子に出している。一人は[[クィントゥス・ファビウス・マクシムス]]の養子にさせ、[[クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌス]]と、もう一人は[[大スキピオ]]の息子の元へ出し[[スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌス]]となった。また娘は[[大カトー]]のもとに嫁いでおり、どれもが後世のローマを代表する人物となっている。
==関連項目==
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*[[マケドニア戦争]]
*[[アンティゴノス朝]]
▲*[[ルキウス・アエミリウス・パウルス]]:父
▲*[[小スキピオ]]:息子
▲*[[クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌス]]:息子
▲*[[大カトー]]:娘婿
[[category:
[[category: 共和政ローマの人物]]
[[category: アエミリウス氏族]]
[[category: 紀元前
[[category: 紀元前160年没]]
[[ca:Luci Emili Paul·le]]
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