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父と共に、[[島原城]]とその城下町の新築、[[ルソン]]([[フィリピン]])遠征の準備(実施せず)、[[参勤交代]]の費用の捻出など種々の口実を設け、領民に過酷な年貢・労役を課した。また、独自に行った[[検地]]では4万石程度の石高にもかかわらず10万石と過大に見積もるなど、藩政において当初から無理があり、領民の蜂起は時間の問題であった。さらに、領内に多かった[[キリシタン]]への弾圧も残酷を極めた。
 
寛永7年([[1630年]])に父の重政が急逝すると、藩主となった勝家は、父をも凌ぐ過酷な収奪を行って領民を苦しめた。寛永11年([[1634年]])になると悪天候と旱魃(かんばつ)が凶作を引き起こしたが、勝家はたとえ凶作でも容赦せず、重い年貢の取立てを行った。米や農作物の取立てだけでなく、重ねて人頭税や住宅税などありとあらゆる税を新設して取り立てたことは多くの記録によって証言されている。(『鍋島勝重公譜』、オランダ商館長([[カピタン]])[[ニコラス・クーケバッケル]]の日記など)
 
やがて勝家は年貢を納められない農民やその責任者である庄屋の妻や娘を人質にとるようになる。前述のクーケバッケルや島原の乱の記録を残した[[長崎市|長崎]]の[[ポルトガル]]人[[ドアルテ・コレア]]は、娘や子供が蓑を着せられ、それに火をつけて苦しむ姿を「蓑踊り」と呼んでいたという記録を残している(蓑踊りが処刑だったか、それとも拷問の手段だったかは今でも疑問が多い)。