「島津氏」の版間の差分

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[[関ヶ原の戦い]]では、西軍に属して徳川家と敵対関係に陥るも、所領安堵を認めさせることに成功する。江戸時代初期に[[琉球]]に侵攻して[[奄美諸島]]を領有し、琉球王朝を支配下に置いた。[[幕藩体制]]下にあっては、[[宝暦治水事件|宝暦治水]]に代表される幕府の弱体化政策など圧迫を受ける一方で、[[薩摩藩]]3代藩主・綱豊の長女・暉姫(後の[[近衛熙子]]。)が[[甲府藩]]主•[[徳川家宣|徳川綱豊]]に嫁ぎ、綱豊が6代将軍・徳川家宣となると、[[近衛基熙]]養女・近衛熙子として将軍御台所となり、また、熙子が[[徳川綱吉]]養女・[[浄岸院|竹姫]]を[[島津継豊]]の後妻として嫁がせて以降の島津氏からは[[広大院|寔子]](11代将軍・[[徳川家斉|家斉]]正室)、[[天璋院|敬子]](13代将軍・[[徳川家定|家定]]正室)と将軍家及び[[徳川氏]]と婚姻を通じ縁戚関係をも深めること度々であった。外様大名でありながら、将軍家御台所を3人も輩出したことは異例中の異例である。また長命と子孫に恵まれた当主が多かったため継嗣問題などへ介入されることが無く、幕府との関係は安定的に推移した。
 
[[幕末]]にいたって、膨張する西洋帝国主義に対抗すべく、28代[[島津斉彬]]の時に洋式製鉄、造船、紡績を中心とした近代産業を興す取り組みを見せた([[集成館事業]])ものの、その結実を見る前に、幕藩体制崩壊の動乱期に入り、藩内より尊皇倒幕の志士を多数輩出、藩も遂に長州藩と結び倒幕の中心となる。明治にいたり、[[島津忠義]]の本家と、実父[[島津久光]]が維新後自ら分家した[[玉里家]]の二家に[[公爵]]が授爵される。他、有力分家に[[昭和天皇]]第五皇女子[[島津貴子|清宮貴子内親王]]が嫁した日向佐土原島津家(幕末時2万7千石 [[伯爵]])がある。その他多数の分家が[[男爵]]に任爵された。
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