「李子通」の版間の差分

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[[大業]]末年、李子通は長白山の賊の左才相の下に身を寄せた。李子通は仁愛で知られ、帰順する者が多く、半年もたたずに一万人あまりを集めた。左才相にその名声を妬まれたため、その下を離れて[[淮水]]を渡り、[[杜伏威]]に合流した。隋将の来整に敗れて海陵(現在の[[江蘇省]][[泰州]])に逃れ、[[将軍]]を自称した。[[615年]]、楚王を僭称した。
 
[[618年]]、[[宇文化及]]が[[煬帝]]を殺した後、[[揚州|江都]]太守の[[陳稜]]が江都を守っていた。李子通が江都を攻撃したため、追いつめられた陳稜は[[沈法興]]と杜伏威に救援を求めた。李子通の部下の毛文深が沈法興と杜伏威のあいだを離間し、二勢力が牽制しあっている隙に、李子通は江都を奪取した。[[619年]]、江都で皇帝を称し、国号を'''呉'''、元号を[[明政]]と定めた。丹楊に拠った楽伯通を降して、尚書左僕射に任じた。また沈法興を破って晋陵を奪い、[[李百薬]]をはじめとした江南の士人の多くを帰順させた。
 
しかし間もなく杜伏威の部下である[[輔公セキ|輔公祏]]に破れ、江都を捨て長江を渡り余杭(現在の[[杭州]])へと逃れ再起を図った。[[621年]]に再度杜伏威に敗れると、楽伯通とともに[[長安]]に連行された。高祖[[李淵]]は邸と畑を与えて厚遇したが、[[622年]]に楽伯通と語らって乱を図り、藍田で捕らえられて処刑された。