「デイトン合意」の版間の差分

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戦前、戦中の和平に向けた努力や取り組みが不調に終わり、1995年8月、[[北大西洋条約機構]] (NATO) によるボスニア・[[セルビア人]]勢力爆撃などの[[NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナ空爆 (1995年)|デリバリット・フォース作戦]]に合わせ、クロアチア軍の[[嵐作戦]]や[[ボスニア・ヘルツェゴビナ|ボスニア・ヘルツェゴヴィナ]]軍の[[スルプスカ共和国]]に対する攻撃が開始されたことを受けて、新たな協議が開始された。またこの協議は[[国際連合]]により安全地帯とされていた[[スレブレニツァの虐殺|スレブレニツァでの虐殺事件]]や[[旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷]] (ICTY) でのボスニア・セルビア人主力部隊や政府の指導者に対する起訴にも影響を持っていた。1995年9-10月、バルカン地域に影響力を持つ諸国によるコンタクト・グループ(とくに[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[ロシア]])はオハイオ州デイトンに集まり、当事3者に対して協議に出席するよう強い圧力を加えることをまとめた。
 
協議の会合は1995年11月1日から同月21日まで行われた。戦闘地域からの主な出席者は、[[セルビア]]大統領[[ロボダン・ミロシェヴィッチ]](ボスニア・セルビア人代表として、[[ラドヴァン・カラジッチ]]は欠席)、[[クロアチア]]大統領[[フラニョ・トゥジマン]]、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ大統領[[アリヤ・イゼトベゴビッチ]]と同国外相[[ムハメド・サチルベイ]]であった。
 
和平協議は[[アメリカ合衆国国務長官|アメリカ国務長官]][[ウォーレン・クリストファー]]が進め、また交渉には国務次官補([[ヨーロッパ]]・[[カナダ]]担当)[[リチャード・ホルブルック]]があたり、共同議長は[[欧州連合]] (EU) [[ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表]][[カール・ビルト]]とロシア外務第一次官[[イーゴリ・イワノフ]]が務めた。このほか重要な出席者としてアメリカ代表団には、のちの1997年にNATO欧州連合軍最高司令官となる[[ウェスリー・クラーク]]や、イギリス軍からは2005年に[[EUFOR]]司令官となる[[デイヴィッド・リーキー]]がいた。またNPOである国際公法・政策グループ (Public International Law & Policy Group, PILPG) が協議期間中、ボスニア政府代表団の法律顧問を務めた。