「ペルシア帝国」の版間の差分

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m 錯綜した内容だったため称号関係を整理。ただ、定義部分でこの問題を細かく説明する必要があるだろうか?(汗
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{{Template:イランの歴史}}
'''ペルシア帝国'''(ペルシアていこく)とは、[[ペルシア]](現在の[[イラン]])を中心に成立していた歴史上の国家である。アケメネス朝(ハカーマニシュ朝)が[[ザグロス山脈|ザーグロス山脈]]南部のパールサ地方(現在の[[ファールス州]]一帯)から勃興して以来、[[イラン高原]]周辺を古典[[ギリシア語]]でペルシス ἡ Περσίς / hê Persís、[[ラテン語]]で'''[[ペルシア]]''' Persia と呼ばれてきたことに由来する。'''ペルシャ帝国'''とも呼び、[[パフラヴィー朝]]時代の1935年に'''イラン帝国'''と改称した。一般的には古代の[[王朝]]、つまり古代ペルシア帝国を指し、中でも[[アケメネス朝]]と[[サーサーン朝]]を指すことが多い。[[君主]]の[[称号]]([[君主号]])は[[シャー]]、あるいはシャーの上位称号で「シャーたちのシャー」を意味する[[シャーハンシャー]]である。[[シャー]]や[[シャーハンシャー]]は概念的に[[皇帝]]に近いが、[[日本語]]訳では[[帝王]]や[[大王]]、もしくは単に[[国王]]とされることが多い。
 
イラン高原周辺の[[君主]]の[[称号]]([[君主号]])は、古代にあっては[[古代ペルシア語]]で「王」を意味するフシャーヤティヤー χšāyaθiya- 、あるいはその上位称号で「[[諸王の王]]」を意味する χšāyaθiya χšāyaθiyānām などが用いられた。サーサーン朝や7世紀以降のイスラーム時代からは、前者はその中期ペルシア語、近世ペルシア語形である[[シャー]] Mlk/šāh, شاه shāh、後者はシャーハーン・シャー([[シャーハンシャー]];「シャーたちのシャー」の意味) Mlk'n Mlk/šāhān šāh, شاهنشاه shāhan-shāh という形で用いられて来た。[[イルハン朝]]時代から[[ティムール朝]]時代にかけて、[[パーディシャー|パードシャー]]もシャーハンシャーと同格の称号として用いられるようになった。[[シャーハンシャー]]やパードシャーは概念的に[[皇帝]]、[[帝王]]に近いが、[[日本語]]訳では特定の君主について欧米で the Great と呼ばれている慣習に基づいて[[大王]]、[[大帝]]と表記する場合もある。[[パフレヴィー朝]]の君主などにその傾向が見られるが、「シャー・誰々」と「シャー」単独で呼ばれる場合もあるため、単に[[国王]]と表記されることも多い。
 
==古代ペルシア帝国==
 
===[[アケメネス朝]]===
キュロス2世により、[[メディア王国]][[リディア王国]][[新バビロニア王国]]を滅ぼし、新バビロニア王国により移住させられたユダヤ人を解放し、バビロン捕囚を終焉させた。キュロス2世の息子[[カンビュセス2世]](カンブジャ)により、エジプトを併合して、古代オリエント世界を統一した。ダレイオス1世が[[ペルシア戦争]]を起こしたが敗北した。[[ダレイオス3世]]のとき[[アレクサンドロス3世|マケドニアのアレクサンドロス]]により征服され滅亡した。
 
===[[アルサケス朝]]===
アルシャク朝、[[パルティア]]とも呼び、古代中国では安息国と呼ぶ。[[セレウコス朝シリア]]から独立し、アルサケス(アルシャク)により建国された。[[ローマ帝国]]との抗争で、ローマ将軍の[[クラッスス]]を戦死させた。
 
===[[サーサーン朝]]===
アルサケス朝と戦って勝利し、アルサケス朝の称号を引き継いだ。ローマ帝国との抗争では[[シャープール1世]][[ヴァレリアヌス]]を捕虜にした。[[東ローマ帝国]]との抗争では[[ホスロー1世]][[ユスティニアヌス1世]]から賠償金を得た。
[[ホスロー1世]]は突厥と同盟を結び、[[サーサーン朝]]を圧迫していた[[エフタル]]を滅ぼした。[[ヤズデギルド3世]]の時代に[[ニハーヴァンドの戦い]][[正統カリフ]]時代の[[イスラム帝国]]に敗北して崩壊し、再起を目指したが滅亡した。
 
==イスラムペルシア帝国==
 
===[[ブワイフ朝]]===
カスピ海南西岸内陸のダイラム地方から勃興した王朝。ブーヤ朝とも。[[アッバース朝]]イスラム帝国の[[バグダード]]に入城し、アッバース朝から大アミール(アミール・アル=ウマラー)の称号を獲得し、その後シャーハンシャーを名乗った。[[イクター制]]を導入した。
[[セルジューク朝]]が台頭した後、セルジューク朝がバグダードを握り滅亡へと向かった。
 
===[[サファヴィー朝]]===
イスラム教[[シーア派]]の一派[[十二イマーム派]]信奉するサファヴィー団から勃興した王朝。[[イルハン朝]]時代にイラン北西部のアルダビールを根拠地とした預言者[[ムハンマド]]の後裔[[サイイド]]のひとりサフィーユッディーンを始祖とするサファヴィー教団が初代君主となる15世紀末の教主[[イスマーイール1世]]の時代にアルダビール周辺の[[テュルクメン]]系の遊牧諸部族からの信奉を受けて[[クズルバシュ]]と呼ばれる軍事集団が形成され、軍事的・領土的に急拡大した。[[十二イマーム派]]がイランの国教となる直接的端緒となった。[[ブワイフ朝]]滅亡後、長い間イラン系の君主による王朝が現れず、使われていなかった君主号としてのシャーの称号を復活させた、とされる。イスラム教[[スン]][[オスマン帝国]]との抗争を繰り返した。イスマーイールはオスマン帝国の[[セリム1世]]と戦い惨敗した。第5代[[アッバース1世]]新都[[カズヴィーン]]から[[イスファハーンを建設]]に遷都大幅な都市の拡張を行った。[[アフシャール朝]]により滅亡した。
 
===[[アフシャール朝]]===
[[サファヴィー朝]]を滅亡させ君主の[[摂政]]であった[[ナーディル・シャー]]がサファヴィー朝最後の君主シャー・アッバース3世の死によって同王朝が断絶したことにより、[[シャー]]を名乗って成立した王朝。オスマン帝国を破って勢力を回復したがすぐに衰退し、[[カージャール朝]]に滅ぼされた。
 
===[[カージャール朝]]===