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==経緯==
東アジアの中世においては、[[倭寇]](前期倭寇)と呼ばれる海上勢力が朝鮮半島でも活動し、李氏朝鮮は討伐や懐柔、室町幕府
対馬は
李氏朝鮮はこれら恒居倭が倭寇化するのを恐れ検断権
<ref>『世宗実録』巻四一、一〇年八月壬辰条</ref> ・徴税権 <ref name="maki43">『世宗実録』巻四三、一一年三月戊辰条</ref> <ref name="maki87">[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_11103020_002&tabid=w 『成宗実録』巻八七、八年一二月 及び
[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_11103022_002&tabid=w 己亥条]
から、1429年当時恒居倭の徴税権は''宗氏ではなく早田氏''が把握していたこと、李氏朝鮮は恒居倭に対し営業税を課税することを検討したが''既に早田氏が課税しているため難しい''と判断し中止したことが示される。(関周一 2002)</ref>
といった行政権を行使できず、日本人有力者が彼らを支配していた。
恒居倭の増加を危惧した李氏朝鮮は宗氏に度々彼らの送還を求めた。当初宗氏は恒居倭を掌握していなかったため
<ref name="maki43" />
対馬への送還に熱心であったが、彼らを掌握するにつれ送還に消極的になり恒居倭は増加する。
恒居倭の増加に伴い、
*朝鮮人の中にも所有する田の名義を日本人にして税を納めなくなる<ref name="maki87" />▼
▲*密貿易が増加する
▲*孤草島釣魚禁約(李氏朝鮮と宗氏の間で恒居倭人の漁場を定めた条約)の域を超えて漁場を占拠する
▲*海賊化する<ref>『成宗実録』巻二四七、二一年一一月辛巳条</ref>
*倭寇の活動に触発され
などといった問題が
1510年、日本人の不満は頂点に達し、宗氏の応援を得て約4500(朝鮮居留日本人は約3000人)の兵力をもって攻め入り、釜山浦・薺浦を陥落させた。しかしその後日本軍は大敗を喫し、恒居倭は追放され、日本と李氏朝鮮の間は断交状態とな
==脚注==
<references />
==参考文献==
関周一 『中世日朝海域史の研究』 吉川弘文社、2002年 <code>ISBN 978-4642028158</code>
== 関連項目 ==
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