「新版大岡政談 (1928年の日活の映画)」の版間の差分

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'''新版大岡政談'''(しんぱんおおおかせいだん)は[[1928年]](昭和3年)公開の[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]監督の映画作品。第一篇・第二編・解決編の三部作からなる。製作は[[日活]]。原作は[[長谷川海太郎|林不忘]]の『[[新版大岡政談]]・鈴川源十郎の巻
 
第一編(10巻)は5月31日、第二編(7巻)は6月8日公開、解決編(7巻)は8月17日に公開された。
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== 概略 ==
『[[旅日記]]』とならぶ伊藤監督の代表作である。「忠治」が悲劇であるのに対して、本作は徹底した娯楽作品とし、波瀾万丈の筋、スピード感ある乱闘、効果的な字幕の使用など人気を集めた。特に解決編のラスト近くの刀をめぐるシーンは名高く、刀をラグビーに見立てて左膳たちが走り回るところでは、映画館が興奮した観客の声援でどよめいた。
 
撮影の[[唐沢弘光]]は、刀の争奪戦の際にはカメラを体に、お藤が屋根伝いに飛ぶシーンでは竹ざおにそれぞれくくりつけて撮影したが、被写体を外すことがなかった。ゆえに、独特のスピード感が出た。
 
主演の[[大河内次郎]]の体当たりの演技が好評で、立ち回りの撮影の際に勢いあまって顔から地面に突っ込んでしまうほどであった。以降左膳は大河内の十八番となる。当時、この作品は日活の大河内のほか、[[マキノ・プロダクション|マキノ]]が嵐長三郎([[嵐寛寿郎]])、[[東亜キネマ|東亜]]が[[團徳麿]]と3社競作であったが、日活の一人勝ちであった。本作では大河内に丹下左膳と大岡越前守の二役を演じさせ、グロテスクなメーキャップをした左膳と立役風の越前守とを対比させている。東亜版では 團徳麿が左膳と刀鍛冶の得印、悪役の豆太郎の三役を演じている。
 
お藤役の伏見直江も熱演であった。ラスト近くの屋根を飛び移るシーンでは乱れた裾から白い太ももが見え隠れしたため、大勢の男性が見に押しかけ、中には銀幕の最前列に陣取って下からのぞき「見えない。」と大騒ぎであった。伏見は「忠治旅日記」をはじめ伊藤作品によく大河内と共演したが、一時は大河内と結婚話もあったほど仲が良かった。
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== キャスト ==
*丹下左膳・大岡越前守:[[大河内次郎]]
*櫛巻きお藤:[[伏見直江]]
*蒲生泰軒:[[高木永二]]
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== 批評 ==
'''*「伊藤監督は宝刀をラグビーのボールのように走りながら、捕り手から捕り手へパスさせる手法を用いた。左膳に追いつかれると捕り手は持った刀を他の捕り手に向けて投げる。空中に飛ぶ宝刀・・・・・映画を見てこれほど興奮のルツボに舞きこまれた光景を見たのは、それが最初で、おそらく最後でなかろうか。」'''(岸松雄 『東京新聞』1960(昭和35)年2月2日の記事)
'''*「大河内伝次郎は自らの弱みを武器として、却って特異なマスクを、特異な性格を強く人々の中に印象づけたのではないか。」'''(筈見恒夫 『キネマ旬報』1934(昭和9)年4月1日号)
'''*「お藤が刀を奪って走り出してからのスピード、それは丹下左膳の出現によって、一度中断され、また以前にもまして左膳の狂闘によって迫進せられる。・・・・素晴らしいキャメラの動きは、内外映画界を通じて、最も優れたるものの一つたることを、私は信じて疑わない。」'''(内田岐三雄)
 
==再現企画==
'''「大河内伝次郎は自らの弱みを武器として、却って特異なマスクを、特異な性格を強く人々の中に印象づけたのではないか。」'''(筈見恒夫 『キネマ旬報』1934(昭和9)年4月1日号)
伊藤大輔監督と主演・大河内傳次郎の生誕110周年である[[2008年]]の[[10月27日]]([[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界視聴覚遺産の日]])に、[[国立近代美術館フィルムセンター]]のユネスコ企画イベントとして、[[活動弁士]]の[[澤登翠]]らによる「[[ロスト・フィルム・プロジェクト]]」により、残された写真と活弁と伴奏により本作を再現する試みが行われた。
 
'''「お藤が刀を奪って走り出してからのスピード、それは丹下左膳の出現によって、一度中断され、また以前にもまして左膳の狂闘によって迫進せられる。・・・・素晴らしいキャメラの動きは、内外映画界を通じて、最も優れたるものの一つたることを、私は信じて疑わない。」'''(内田岐三雄)
 
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