「ガイウス・スクリボニウス・クリオ」の版間の差分

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'''ガイウス・スクリボニウス・クリオ'''('''Gaius Scribonius Curio''', [[紀元前90年]] - [[紀元前49年]])は、[[共和政ローマ]]時代の政治家・軍人である。
 
== 生涯 ==
クリオは同名のガイウス・スクリボニウス・クリオの息子として生まれた。クリオは[[グナエウス・ポンペイウス]]や[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]、[[マルクス・アントニウス]]および[[キケロ]]といった著名なローマの政治家とも交友関係を持っており、クリオは雄弁なことでも知られていたという。クリオは大変な放蕩者であったが、キケロは自らの著作や[[アッティクス]]への書簡でクリオに関して幾度も記しているように、クリオへの支援を惜しまなかった。
 
クリオは[[紀元前50年]]に[[護民官]]となったが、これまでの経歴や父が強硬な反カエサル派であったことから[[元老院派]]に属すると考えられたものの一転してカエサルを支持した。なお、[[タキトゥス]]によるとこの裏側でクリオが抱えていた多額の借金(総額6,000万セステルティウスとも)をカエサルが肩代わりしたという。<br>カエサルとポンペイウスの間で起こった[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|内戦]]の前には、クリオは両者が争いを止めるように元老院派に職権で以て抵抗したものの果たせず、元老院派がカエサルに対する'''「元老院最終勧告」'''を可決した為、クリオはカエサルが滞在していた[[ラヴェンナ]]へアントニウスらと共に逃れた
 
カエサルとポンペイウスの間で起こった[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|内戦]]の前には、クリオは両者が争いを止めるように元老院派に職権で以って抵抗したものの果たせず、元老院派がカエサルに対する「元老院最終勧告」を可決したため、クリオはカエサルが滞在していた[[ラヴェンナ]]へアントニウスらと共に逃れた。
[[紀元前49年]]、クリオは[[プラエトル]](法務官)の地位に就き、内戦ではカエサルに従った。まずは元老院派の[[小カト]]が抑えていた[[シチリア]]攻略の任をカエサルに与えられ、戦わずしてこれを成功させた。<br>
続いて、ポンペイウス及び元老院派の地盤の一つであるアフリカ属州の征服をカエサルから命じられたため[[ローマ軍団]]4個軍団を率いて侵攻し、プブリウス・アッティウス・ウァルスらの元老院派及び元老院派と同盟した[[ヌミディア]]王[[ユバ1世]]のヌミディアからなる連合軍と[[バグラダス川の戦い]](現:[[メジェルダ川]])で対戦したものの大敗を喫し、クリオは逃亡を潔しとせずに敵陣へ切り込んで戦死した。
 
[[紀元前49年]]、クリオは[[プラエトル]](法務官)の地位に就き、内戦ではカエサルに従った。まずは元老院派の[[小カト]]が抑えていた[[シチリア]]攻略の任をカエサルに与えられ、戦わずしてこれを成功させた。<br>
 
続いて、ポンペイウスおよび元老院派の地盤の一つである[[アフリカ属州]]の征服をカエサルから命じられたため[[ローマ軍団]]4個軍団を率いて侵攻し、[[プブリウス・アッティウス・ウァルス]]らの元老院派および元老院派と同盟した[[ヌミディア]]王[[ユバ1世]]のヌミディアからなる連合軍と[[バグラダス川の戦い]](現:[[メジェルダ川]])で対戦したものの大敗を喫し、クリオは逃亡を潔しとせずに敵陣へ切り込んで戦死した。
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[[Category:古代ローマ人]]
[[Category:共和政ローマの人物]]
[[Category:紀元前90年生]]
[[Category:紀元前49年没]]
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[[ca:Gai Escriboni Curió (tribú de la plebs)]]