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[[Image:Temple Of Bell (inner-court) Palmyra Syria 2005.jpg|250px|thumb|パルミラ遺跡]]
'''セプティミウス・オダエナトゥス'''(ラテン語:'''Septimius Odaenathus''', ? - [[267年]])は通商都市[[パルミラ]]を根拠地として[[ローマ帝国]]の東方属州を統括していた人物であり、後。のちの[[パルミラ王国]]の原型を作った。氏族名は「オダエナトゥス」以外に、「オデナトゥス」「オーデナサス」とも表記される。
 
== 生涯 ==
オダエナトゥスの氏族名(ノーメン)からも表されるように、オダエナトゥスの祖先は[[セウェルス朝]]より[[ローマ市民権]]を得たと考えられ、190年代の内にパルミラに移り住んだとされる。
 
[[260年]]にサーサーン朝が[[ウァレリアヌス]]帝を捕虜とした時期にオダエナトゥスは既に[[シリア属州]]を中心としたローマ東方属州における有力者となっており、当初は[[シャープール1世]]とも交渉した形跡がある。
 
ウァレリアヌスの後継としてその息子・[[ガリエヌス]]が皇帝に即位したが、これに対して20名以上の皇帝僭称者が出るなど、ローマは大混乱に陥った。オダエナトゥスは皇帝僭称者の一人である[[クィエトゥス]]([[:en:Quietus|enQuietus]])をエメサ(現:[[ホムス]])に攻め滅ぼし、その後もガリエヌスの皇帝即位を支援するべく、オダエナトゥス自らの私兵を率いてガリエヌスに味方して戦った。そのため、ガリエヌスから信頼を得て、東方属州の防衛を一任されるまでなった。
 
その生涯にいて、オダエナトゥスがローマ帝国から独立して王位に就くことは無かったものの、ローマ自体が北方異民族の侵入や西方属州の割拠([[ガリア帝国]])により危機的状態あったため、事実上はオダエナトゥスもローマとは一線を画した半独立状態あった。
 
[[267年]]、オダエナトゥスは[[ゴート族]]討伐の出征前の宴席で甥・マエオニウス ([[:en:Maeonius|en]])(Maeonius)) により暗殺された。同時に息子ヘロディアヌス ([[:it:Hairan|it]]) も殺害された。[[258年]]に後妻として迎え入れた[[ゼノビア]]が仕組んだともされるが、背後関係は不明である。なお、オダエナトゥスの死後はゼノビアが息子[[ヴァバラトゥス]]をオダエナトゥスの後継者に据えて自らが実権を握った
なお、オダエナトゥスの死後はゼノビアが息子[[ヴァバラトゥス]](Vaballathus)をオダエナトゥスの後継者に据えて自らが実権を握った。
 
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[[Category:古代ローマの敵と同盟者]]
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[[Category:シリアの人物]]
[[Category:267年没]]
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[[de:Septimius Odaenathus]]