「ティベリウス・クラウディウス・ネロ」の版間の差分

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このような経歴からカエサル派としてみられるが、[[紀元前44年]][[3月15日]]にカエサルが暗殺されると共和派に同調を見せる。[[元老院 (ローマ)|元老院]]において[[マルクス・ユニウス・ブルートゥス]]、[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス]]ら暗殺犯を赦免する決議の出された時には、[[僭主]]殺しの英雄として褒賞を与えるべきだとの提案までしている。
 
その後[[共和政ローマ|ローマ]]はブルートゥス、カッシウスら共和派と[[マルクス・アントニウス]]、オクタウィアヌス(のちの[[アウグストゥス]])、[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス]]の[[第二回三頭政治|三頭官]](国家再建三人委員会)との間で再度の内戦に突入する。この間ティベリウス・ネロはアントニウスに接近したようで、この後三頭官の間で確執が生じるとオクタウィアヌスに対立して行動していく。
 
[[紀元前41年]]に[[プラエトル|法務官]]に就任する。この年の冬にマルクス・アントニウスの弟でこの年の執政官[[ルキウス・アントニウス]]とマルクスの妻[[フルウィア]]がオクタウィアヌスに反抗してペルシア(現在の[[ペルージャ]])で蜂起すると、ティベリウス・ネロもこれに加わった。ペルシアでの敗北後ティベリウス・ネロは妻子を連れてプラエネステ、ナポリと逃走するが、この間にも失敗に終わったものの、解放の条件で奴隷の軍団を組織しようとするなどしている。