「林家三平 (初代)」の版間の差分

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だが、[[赤坂プリンスホテル]]で行われた新団体の旗揚げの記者会見に現れたのは圓蔵だけで、三平はついに姿を現さず、新団体の参加者たちを動揺させることとなる。三平は、圓生が裏で三平とその門下たちを扱下ろしていた実態<ref>自他共に認める正統派古典落語家権威主義者の圓生と、爆笑型テレビスターの三平は、最初の落語観からして全く異なる完全な対極的存在であり、特に圓生は三平とその一門を日頃から嫌悪・誹謗する発言をしていた。</ref>を十分に把握しており、その圓生が中心人物となる新団体に移籍したところでロクな事にはならないと<ref>落語協会会長時代の圓生は、真打昇進の基準として自身の古典絶対主義の落語観を強力に用いた為、新作落語や爆笑落語を専門分野とする若手の真打昇進をほとんど認めなかった。この実例を鑑みれば、圓生が健在である限り、新団体では三平の弟子たちが昇進すらままならなくなる事は、火を見るより明らかであった。</ref>、自身の中では当初から「落語協会残留」に方針を定め、それは揺らぐ事は無かった。
 
なお、[[三遊亭圓丈]]の著書『[[御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち]]』などで語られるところでは、この時、三平は弟子を集めて「私は新協会に誘われているがみんなはどう思うか」と聞いたところ、総領弟子[[林家こん平|こん平]]が三平の足にしがみ付き「師匠の行く所なら何処までもご一緒します」と泣いたという。圓丈によれば、クサイ芝居で嫌われたこん平でもあれは酷かったと専らの評判であったというが、三平とその門下の結束の強さを示すエピソードであるが、著者の圓丈がいた圓生一門はこの一件が尾を引き、事実上の空中分解に近い形で消滅しており、文中からはこの一件で揺らぐことの無かった三平一門の結束の強さに対する羨望も窺える。
 
また、[[興津要]]の『落語家』(旺文社文庫)によれば、そればかりでなく師匠圓蔵に落語協会脱退を撤回させたのも、三平の説得によるものであったという。興津はそれは相当に粘り強い努力であったろうと推測している。圓生を中心とする新協会([[円楽一門会|落語三遊協会]])にとって、三平の不参加、そして三平が圓蔵を「脱落」させた事は相当の痛手になったと言われている。
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落語の世界では芸がこれから円熟すると言われる五十代半ばで[[肝臓癌]]によって早世し、惜しまれた三平ではあるが、周囲の証言によればその最期もネタできっちり締めたという。
 
ベッドの上にあっても亡くなる数時間前まででベッドで新聞や週刊誌から面白いネタや情報を仕入れようとしてと言われる。
 
しかし、容体は急変、三平は垂死の床にあって意識が混濁してた。そこに、医師が呼び掛けた。<BR>
医師「しっかりして下さい。あなたのお名前は?」<BR>
三平「'''[[加山雄三]]です'''」<BR>