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Point136 (会話 | 投稿記録)
m WP:BOTREQ#チンギス・カン - チンギス・ハーン
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'''チャブイ'''('''Čabui''', ? - [[1281年]])は、[[モンゴル帝国]]([[元 (王朝)|元]])の[[ハーン|大ハーン]](カアン)、世祖[[クビライ]]の皇后。漢字表記は察必、[[集史]]のペルシア語表記では چابوى خاتون Chābū'ī Khātūn または چابون خاتون Chābūn khātūn として表れる。諡は昭睿順聖皇后。
 
[[コンギラト]]部族の出身で、父のアルチ・ノヤンは[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]の第一夫人[[ボルテ]]の弟である。伯母ボルテの孫にあたるクビライと結婚し、夭折したドルジと、後にクビライ政権で活躍する[[チンキム]]、[[マンガラ]]、[[ノムガン]]の4子を産んだ。
 
チャブイはハー一族ギス・カン家の姻族としてモンゴル帝国の中でも特に有力な部族の出であり、実家のコンギラト部族をはじめとする五投下と呼ばれる部族集団は、兄である皇帝[[モンケ]]によって[[中国]]の経略を委ねられたクビライを支えて活躍した。特に同母姉が嫁いだ[[ジャライル]]部の[[ムカリ]]の子バアトルはクビライの腹心となり、[[1259年]]のモンケ死後のクビライのハーカアン位奪取に功があった。また、チャブイ自身、その宮廷([[オルド]])に[[アフマド・ファナーカティー|アフマド]]ら有能な商人を個人的な用人に集めて利殖を行い、財産を蓄えて勢力があった。
 
[[1271年]]にクビライが樹立した元では、次男のチンキムが燕王、三男のマンガラが安西王、四男のノムガンが北平王に封ぜられ、それぞれが中国北部、中国西部、[[モンゴル高原]]を分担して統治した。中央政府ではチンキムが行政機関である[[中書省]]と軍政機関の[[枢密院]]を統括し、さらにバアトル夫妻の子でチャブイの甥にあたる[[アントン (ジャライル部)|アントン]]が中書省の長官となった。加えてクビライによって新設された財務部局の長官としてチャブイの用人であるアフマドが抜擢され、元の政権中枢部にチャブイの縁者によって占められるようになった。このような状況を指して、大元王朝とはチャブイを扇の要とするコンギラト政権であったと評価する歴史家もいる。