「フォンテーヌブローの勅令」の版間の差分

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== ナントの勅令廃止の発端 ==
=== アレスの講和からルイ14世親政時代まで ===
[[1629年]]の[[アレスの講和]]では、ナントの勅令によって[[ユグノー|ユグノー教徒]]らに与えられていた特権が、特に軍事的条項に関して、大幅に削減された。その後、ユグノー教徒、すなわち当時の[[カトリック教会|カトリック]]が呼んだところの「偽改革派(RPR:Religion Prétendue Réformée)」は若干の権利の削減以上にはあまり大きな打撃を受けずに30年間ほど暮らしてはいたが、彼らが特権を完全に失わなかったのは恒常的な法的闘争のおかげでもあった。
 
宰相 [[リシュリュー]]は外交上の理由からナントの勅令をそれなりに尊重した。 [[30年戦争]]の渦中にあった彼は、ドイツの[[プロテスタント]]派の国々や[[スウェーデン王国]]と同盟を結ぶためには、フランス国内のユグノーたちを軽視できなかったのである。しかし、[[1642年]]にリシュリューが、[[1643年]]に[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]が没すると、ユグノー派にとっては不安な時代を迎えることとなった。リシュリューの時代には比較的安定していた状況も、[[ジュール・マザラン]]が宰相となるに至り、もはや見通しの明るいものではなくなっていた。