「クラヨーヴァ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
DragonBot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: uk:Крайова
m lk
46行目:
1395年、クラヨーヴァは、ワラキア公[[:en:Mircea I of Wallachia|ミルチャ1世]]が[[オスマン帝国]]君主[[バヤズィト1世]]軍を破った際の戦場となった([[:en:Battle of Rovine|ロヴィネの戦い]])。
 
16世紀前半以後、しばしば都市と称されるようになり、クラヨーヴァ地域は常にワラキア及びルーマニアの重要経済地域と一般にみなされた。1718年から1737年にかけ、[[ハプスブルク家]]がオルテニア全体を支配し、その間クラヨーヴァの地位は経済的な圧迫と、中央集権制度強化のため衰えた。そしてクラヨーヴァのボヤールの抗議活動と平行して、[[ハイドゥク([[:en:hajduk|hajduk]]と呼ばれる山賊が一部で増加することになった。1761年、[[ギリシャ]]貴族のワラキア公コンスタンティヌス・マヴロコルダトス([[:en:Constantine Mavrocordatos]])時代、バンたちはクラヨーヴァで自らの代理をするカイマカム([[:en:kaymakam|Kaymakam]]、トルコ時代の称号で、知事を意味する)を残して、[[ブカレスト]]へ強制隔離された。
 
ワラキア公エマヌエル・ジャニ・ルセット([[:en:Emanuel Giani Ruset|Emanuel Giani Ruset]])時代、ワラキアの首都がクラヨーヴァへ移された(1770年-1771年)。[[露土戦争]](1768年-1774年)で戦場となるのを避けるためとみられる。1800年、[[ボスニア]]系[[トルコ人]]の[[パシャ]]、オスマン・パズヴァントウル([[:en:Osman Pazvantoğlu|Osman Pazvantoğlu]])の反乱で、クラヨーヴァ市内大部分が焼け野原となった。