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'''鎮守府'''(ちんじゅふ)
*[[古代]]日本の地方軍政府。詳細は[[#鎮守府 (古代)]]を参照。
*近代の[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の機関。詳細は[[#鎮守府 (日本海軍)]]を参照。
== 古代 鎮守府 ==▼
'''鎮守府'''(ちんじゅふ)は、[[古代]]の[[陸奥国]]に置かれた[[軍政]]を司る役所の事である。その長官である[[将軍]]の名が 729 年([[天平]] 1)に初めて見えることから、[[奈良時代]]前半には鎮守府相当の機関が東国の何れかの地に設置されたものと推測される。'''鎮守府将軍'''の職位は五位から四位相当である。▼
一般的に、鎮守府の前身は[[続日本紀]]に見える'''鎮所'''(ちんじょ)であり、[[陸奥国]]府があったとされる[[多賀城]]付近に併設されていたものと推測されている。そして[[802年]]([[延暦]]21年)に[[坂上田村麻呂]]が[[胆沢城]]を築城し、この時'''鎮守府'''は胆沢城に移されたと云われている。▼
▲古代日本における'''鎮守府'''(ちんじゅふ)は、
▲一般的に、鎮守府の前身は『[[続日本紀]]』に見える「'''鎮所'''」(ちんじょ)であり、[[陸奥国]]府があったとされる[[多賀城]]付近に併設されていたものと推測されている。そして
=== 多賀城時代 ===
鎮守府相当の機関は、初め[[多賀城]]に置かれたと推測されている。
征夷の際には、
▲征夷の際には、'''征夷大使'''(将軍)や'''征東大使'''(将軍)が任命され、征討軍が編成された。鎮守府は通常の守備と城柵(じょうさく)の造営、維持など陸奥国内の軍政を主な任務としていたと云われる。
=== 胆沢城時代 ===
このように、鎮守府の本来の性格は、正にこの平常時での統治であり、非常時の征討ではない。
==
近代日本海軍の'''鎮守府'''(ちんじゅふ)は
各鎮守府は、所轄海軍区の防備、所属艦船の統率・補給・出動準備、兵員の徴募・訓練、施政の運営・監督にあたった。鎮守府司令長官([[海軍大将|大]]・[[中将]])は[[軍政]]に関しては[[海軍大臣]]の、作戦計画に関しては[[海軍軍令部長]](軍令部総長)の指示を受けた。なお、大湊(現:[[むつ市]])は、軍港よりも格下の要港と定められ、鎮守府よりも格下の[[要港部]]が設置されていた。なお、要港部は[[1941年]]11月に、鎮守府と同格の[[警備府]]に改変された。ただし、鎮守府のような固有の艦艇は保有せず、したがって[[警備戦隊]]・防備戦隊は持たない。▼
===
[[1875年]]日本周辺を東西の2海面に分け、東西両
[[1886年]]海軍条例の制定により、日本の沿岸、[[海面]]を5海軍区に分け、各海軍区に鎮守府と[[軍港]]が設置されることになった。横須賀のほかに、[[1889年]]には[[呉市|呉]]([[呉鎮守府]])と[[佐世保鎮守府|佐世保]]([[佐世保鎮守府]])に、[[1901年]]に[[舞鶴市|舞鶴]]に鎮守府([[舞鶴鎮守府]])が開庁した。しかし、当初予定されていた[[室蘭市|室蘭]]への設置は[[1903年]]に取り止めとなった。
[[1905年]]には[[旅順口鎮守府]]が設置された([[1906年]]旅順鎮守府と改称、1914
▲各鎮守府は、所轄海軍区の防備、所属艦船の統率・補給・出動準備、兵員の徴募・訓練、施政の運営・監督にあたった。鎮守府司令長官([[海軍大将|大]]・[[中将]])は[[軍政]]に関しては[[海軍大臣]]の、作戦計画に関しては[[海軍軍令部長]](軍令部総長)の指示を受けた。なお、大湊(現:[[むつ市]])は、軍港よりも格下の要港と定められ、鎮守府よりも格下の[[要港部]]が設置されていた。なお、要港部は[[1941年]]11月に、鎮守府と同格の[[警備府]]に改変された。ただし、鎮守府のような固有の艦艇は保有せず、したがって[[警備戦隊]]・防備戦隊は持たない。
鎮守府は[[第二次世界大戦]]後の[[1945年]]11月に廃止された。もっとも、1952年(昭和27年)に発足した[[警備隊
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