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[[Image:FRY Passport.jpg|thumb|225px|right|ユーゴスラビア連邦共和国のパスポート。[[2009年]][[12月31日]]まで有効とされる。]]
 
'''ユーゴスラビア連邦共和国'''(ユーゴスラビアれんぽうきょうわこく、[[セルビア語]]・[[セルビア・クロアチア語]]:{{lang|sr|Федеративна Република Југославија; '''ФРЈ''' / ''Federativna Republika Jugoslavija; '''FRJ'''''}})は、[[1992年]]から[[2003年]]まで存続した連邦国家である。[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]](SFRJ)が崩壊して4つの共和国が独立した後、同国に留まっていた[[セルビア共和国 (1990年-2006年)|セルビア共和国]]と[[モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)|モンテネグロ共和国]]によって結成された。[[2003年]]に国家を再編し、国家連合[[セルビア・モンテネグロ]]に以降したが、国家連合もその3年後の2006年、モンテネグロの住民投票で独立が支持されたことに伴い、解消された。その結果、2006年には[[モンテネグロ]]、[[セルビア]]の両国はともに独立国となった<ref name="kubo hikisakareta">{{Cite book
|author=[[久保慶一]]
|year=2003年10月10日
|title=引き裂かれた国家―旧ユーゴ地域の民主化と民族問題
|publisher=有信堂高文社
|location=日本、東京
|id=ISBN 978-4842055510
}}</ref>
 
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)から4つの共和国が分離したことによって、残された2国から成るユーゴスラビア連邦共和国(FRJ)はより単一民族的となった。2つの国家で多数派を形成する民族はそれぞれ[[セルビア人]]、[[モンテネグロ人]]であるが、両者は民族的・文化的にほぼ同一である。モンテネグロ人の民族主義者は、モンテネグロ人がセルビア人とは異なる独自の民族であると主張するが、それ以外の多くの人々はモンテネグロ人はセルビア人の一支族であると考えている。ユーゴスラビア連邦共和国の少数民族としては、[[アルバニア人]]、[[マジャル人]]、[[ルーマニア人]]などがいる。[[コソボ・メトヒヤ自治州 (1990年-1999年)|コソボ・メトヒヤ自治州]]で多数派である[[アルバニア人]]と少数派の[[セルビア人]]との間で民族的緊張が高まり、両者の衝突はユーゴスラビア連邦共和国の存続期間を通してずっと続いた問題であった<ref name="kubo hikisakareta" />
 
ユーゴスラビア連邦共和国は、[[1992年]]の建国から[[2000年]]に至るまで、かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国の継承国家とは認められていなかった。1992年から2000年までの間、[[アメリカ合衆国]]などの国々はユーゴスラビア連邦共和国を「セルビアとモンテネグロ」、あるいはその中でセルビアが支配的な地位にあったことから単に「セルビア」と呼ばれた。特に[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]がセルビア大統領の地位にあった時代、ミロシェヴィッチは連邦の大統領よりも強い影響力を持っていた。ミロシェヴィッチやセルビア民族主義に反対する人々は、ミロシェヴィッチ支配下のユーゴスラビア連邦共和国を「[[大セルビア]]」と呼んだ。
 
== 歴史 ==
[[1991年]]から[[1992年]]にかけての[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]の崩壊によって、[[セルビア共和国 (1990年-2006年)|セルビア共和国]]と[[モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)|モンテネグロ共和国]]だけがユーゴスラビア連邦に残された。2国は連邦を維持することを決め、[[1992年]]に新しい憲法を制定した<ref name="kubo hikisakareta" />。旧[[東側諸国]]における[[共産主義]]体制の崩壊を受け、共産主義体制は正式に放棄され、1990年に解体した[[ユーゴスラビア共産主義者同盟]]の指導的地位は否定された。国旗からは[[赤い星]]が取り除かれ、社会主義的な国章も変更され、セルビアとモンテネグロの象徴の入った双頭の鷲の紋章に変更された。このほかの変更としては、警察の呼称がミリツィヤ({{lang|sr|Милиција / ''Milicija''}})からポリツィヤ({{lang|sr|Полиција / ''Policija''}})に改められ、2つの共和国はそれぞれの武力を持つとされた。新しい連邦はまた、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の時代の集団指導体制を廃止し、民主的に選ばれた単独の大統領制とし、民主的に選ばれた一つの議会を持つとされた。
 
=== ユーゴスラビア連邦共和国とユーゴスラビア紛争 ===
ユーゴスラビア連邦共和国は、国際的な機関への参加資格を停止されていた。これは、[[1990年代]]に進行中であった[[ユーゴスラビア紛争]]のためである。そのため、旧連邦の資産と責務、とくに国債の分配に関する合意の妨げとなっていた。ユーゴスラビア連邦共和国の政府は、[[1991年]]から[[1995年]]にかけての紛争で、[[クロアチア]]や[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の[[セルビア人]]勢力を支援していた。そのために、ユーゴスラビア連邦共和国は経済的・政治的な制裁下におかれ、国の経済は壊滅し、多くの若い人々が国外に流出した。
 
[[英国放送協会|BBC]]のドキュメンタリー番組「Death of Yugoslavia」では、ユーゴスラビアの高官[[ボリサヴ・ヨヴィッチ]]([[:en:Borisav Jović|Borisav Jović]])が、[[スルプスカ共和国軍|ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人軍]]が[[ユーゴスラビア人民軍]]から分かれて組織されたことを明かした。これによって、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立に伴って、そこに駐留していたユーゴスラビア人民軍は「外国の侵略軍」ではなくなり、ユーゴスラビアが侵略者として紛争に介入しているとする見方を回避した。この際、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人軍は、自力での資金拠出能力はなく、ユーゴスラビアから多量の装備と全ての資金を受け取っていた。さらに、[[セルビア急進党]]の党首で民兵組織「[[白い鷹]]」の創設者でもある[[ヴォイスラヴ・シェシェリ]]は、セルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチがシェシェリに対して民兵をボスニア・ヘルツェゴビナに送るよう私的に要請したと主張している。さらに、ボスニアのセルビア人軍を指揮していたのは、かつてのユーゴスラビア人民軍の指揮官[[ラトコ・ムラジッチ]]であった。ムラジッチはユーゴスラビア人民軍の指揮官として1991年から1992年の[[クロアチア紛争]]に従事し、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]での戦争犯罪の嫌疑で[[ユーゴスラビア国際戦犯法廷]]に訴追されている。<ref>{{Cite book
|author=[[岩田昌征]]
|year=1999年8月20日
|title=ユーゴスラヴィア多民族戦争の情報像―学者の冒険
|publisher=御茶の水書房
|location=日本
|id=ISBN 978-4275017703
}}</ref><ref name="sahara bosnia">{{Cite book
|author=[[佐原徹哉]]
|year=2008年3月20日
|title=ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化
|publisher=有志舎
|location=日本、東京
|id=ISBN 978-4-903426-12-9
}}</ref>。ムラジッチはユーゴスラビア人民軍の指揮官として1991年から1992年の[[クロアチア紛争]]に従事し、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]での戦争犯罪の嫌疑で[[ユーゴスラビア国際戦犯法廷]]に訴追されている<ref name="sahara bosnia" />。
 
[[1995年]]、セルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチは、ユーゴスラビア連邦共和国とボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人勢力を代表して[[アメリカ合衆国]]の[[デイトン (オハイオ州)|デイトン]]で和平交渉に臨み、その結果結ばれた[[デイトン合意]]によってボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は終結した<ref name="sahara bosnia" />
 
=== 分離主義の動き ===
[[1996年]]、モンテネグロは、セルビアと結んでいた経済協力関係を破棄し、独自の[[経済政策]]を始め、通貨として[[ドイツマルク]]を導入した<ref name="kubo hikisakareta" />。その後のモンテネグロ政府は独立を目指した政策を採り続け、セルビアとの政治的緊張は[[2000年]]にミロシェヴィッチが失脚した後も続いた。さらに、[[アルバニア人]]民族主義者の武装組織が[[1996年]]ごろから暴力を次第に激化させていった<ref name="kubo hikisakareta" />。ユーゴスラビア連邦国家の存続は政府にとって深刻な問題となった。
 
=== コソボ紛争 ===
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== 領土区分 ==
[[Image:Scg02.png|thumb|200px|right|ユーゴスラビア連邦共和国の領土区分。黄色で示された大きいほうが[[セルビア共和国 (1990年-2006年)|セルビア共和国]]。青で示された小さいほうが[[モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)|モンテネグロ共和国]]。]]
ユーゴスラビア連邦共和国の領土は、2つの共和国と2つの自治州の4つに大きく分けられる<ref name="kubo hikisakareta" />
 
[[Image:Flag of Serbia 1991-2004.svg|120px|border]]
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ユーゴスラビアは、かつての領土を大きく失い、市場が縮小したこと、および経済政策の失敗、紛争による国際的な経済制裁によって、深刻な苦境に陥った。[[1990年代]]前半、ユーゴスラビアでは通貨[[ユーゴスラビア・ディナール]]はハイパーインフレに見舞われた。1990年代中ごろにはインフレを脱した。さらにユーゴスラビアの経済を悪化させたのは、[[コソボ紛争]]におけるインフラ、産業施設への空爆であった。これによってユーゴスラビアの経済は[[1990年]]の半分にまで縮小した。ミロシェヴィッチの失脚後、[[セルビア民主野党連合|民主野党連合]]の連立政権は、経済の安定化措置を導入し、大胆な市場改革に乗り出した。[[国際通貨基金]]の会員資格を2000年に更新すると、ユーゴスラビアは[[世界銀行]]や[[欧州復興開発銀行]]などへの再加入も果たし、国際社会に復帰していった。
 
小さいモンテネグロは経済的には連邦政府や、ミロシェヴィッチ時代の前半はセルビアの支配を受けた。その後、2つの共和国は中央銀行を分離し、モンテネグロでは通貨として[[ドイツマルク]]を導入し、ドイツマルクが[[ユーロ]]に移行するとユーロが通貨となった<ref name="kubo hikisakareta" />。セルビアではその後もユーゴスラビア・ディナールを[[セルビア・ディナール]]と改称し、使用し続けた。
 
ユーゴスラビア連邦の複雑な政治関係、民営化の遅れ、ヨーロッパの景気低迷は、ユーゴスラビア経済に悪影響を及ぼした。国際通貨基金の介入、特に財政規律の要求は、政策決定に重要な要素となった。深刻な失業率は、経済問題の中核であった。汚職や腐敗もまた深刻であり、巨大な[[闇市]]や、形式経済に犯罪要素が深く食い込んでいることも問題であった。
 
== 参考文献脚注 ==
{{Reflist}}
* {{Cite book
|author=[[久保慶一]]
|year=2003年10月10日
|title=引き裂かれた国家―旧ユーゴ地域の民主化と民族問題
|publisher=有信堂高文社
|location=日本、東京
|id=ISBN 978-4842055510
}}
 
{{ユーゴスラビア連邦の構成国}}