「ティベリウス・クラウディウス・ネロ」の版間の差分

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(新規…皇帝ティベリウスの父)
 
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<center><table class="noprint" style="border:solid #999 1px; background:#f8f8f8; padding:0.2em 0.5em;"><tr><td>この記事ではローマ皇帝ティベリウスの同名の父について記述しています。<BR>第2代ローマ皇帝{{PAGENAME}}は[[ティベリウス]]を、その他の{{PAGENAME}}については[[{{PAGENAME}} (曖昧さ回避)]]をご利用ください。</td></tr></table></center>
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'''ティベリウス・クラウディウス・ネロ'''('''Tiberius Claudius Nero''', [[紀元前33年]]頃没)は、[[ローマ帝国]]第2代皇帝[[ティベリウス]]の実父で、[[アウグストゥス]]の妻[[リウィア]]の最初の夫。
 
ティベリウス・ネロの死後、アウグストゥスの継子となったティベリウスとドルススは[[ユリウス・クラウディウス朝]]の一員に組み込まれティベリウスは第2代の[[ローマ皇帝]]ともなった。
 
ドルススの息子である[[ゲルマニクス]]や第4代皇帝[[クラウディウス]]は孫にあたり、ゲルマニクスの供である第3代皇帝[[カリグラ]]や[[小アグリッピナ]]は曾孫にあたる。小アグリッピナの息子である第5代皇帝[[ネロ]]は孫にあたる。
== 生涯 ==
名門クラウディウス氏族に属するティベリウス・ネロは、その経歴を[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]付きの[[クァエストル]]として始める。[[ポンペイウス]]との内戦勝利後、カエサルが[[プトレマイオス朝]]と戦ったアレクサンドリア戦争では艦隊を指揮し、勝利に貢献した。このときの貢献のためプブリウス・スキピオの後任の[[ポンティフェクス]]に任命され、[[ガリア]]にナルボやアレラテなどの[[植民市]]建設の指導のため派遣された。
このような経歴からカエサル派としてみられるが、[[紀元前44年]][[3月15日]]にカエサルが暗殺されると共和派に同調をみせる。[[元老院]]において[[マルクス・ユニウス・ブルートゥス]]、[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス]]ら暗殺犯を赦免する決議の出された時には、僭主殺しの英雄として褒賞を与えるべきだとの提案までしている。
 
その後[[共和政ローマ|ローマ]]はブルートゥス、カッシウスら共和派と[[マルクス・アントニウス]]、オクタウィアヌス(のちの[[アウグストゥス]])、[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス]]の[[三頭政治|三頭官]](国家再建三人委員会)との間で再度の内戦に突入する。この間ティベリウス・ネロはアントニウスに接近したようで、この後三頭官の間で確執が生じるとオクタウィアヌスに対立して行動していく。
 
[[紀元前41年]]に[[法務官|プラエトル]]に就任する。この年の冬にマルクス・アントニウスの弟でこの年の[[執政官|執政官(コンスル)]][[ルキウス・アントニウス]]とマルクスの妻[[フルウィア]]がオクタウィアヌスに反抗してペルシア(現在の[[ペルージャ]])で蜂起すると、ティベリウス・ネロもこれに加わった。ペルシアでの敗北後、ティベリウス・ネロは妻子を連れてプラエネステ、ナポリと逃走するが、この間にも、失敗に終わったものの、解放の条件で奴隷の軍団を組織しようとするなどしている。
 
その後、同じくオクタウィアヌスと対立していたポンペイウスの息子[[セクストゥス・ポンペイウス]]のいる[[シチリア島]]へも渡っ逃走したが、ポンペイウスから軍の指揮権を与えられなかったためマルクス・アントニウスのいる[[アカイア]]へと向かった。
 
この年紀元前40年にアントニウスとオクタウィアヌスとの間では和平が締結され、翌年ティベリウス・ネロは家族と共に[[ローマ]]に帰還する。このローマでオクタウィアヌは初めて出会ったリウィアに惹かれ、結婚を強く望むようになる。ティベリウス・ネロはこの要望を受け入れ、身重の妻と離婚した。[[紀元前38年]][[1月17日]]にリウィアとオクタウィアヌスは結婚し、その後リウィアは次男ドルススを出産した。
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