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'''トクタミシュ'''('''Toqtamish''', ? - [[1406年]])は、[[バトゥ]]家断絶後の[[ジョチ・ウルス]]の[[ハーン|ハン]]である。ペルシア語・チャガタイ語資料では توقتاميش خان Tūqtāmīsh Khān と表記され、[[ロシア語]]ではトフタムィシ({{lang|ru|Тохтамыш}}; Tokhtamysh)と表記される。[[ウルス]]左翼(東部)の小王族から[[ティムール朝]]の援助を受けてハンに立ち、分裂していたジョチ・ウルスの再統合と再編を果たすが、のちに[[ティムール]]と対立し、敗れて没落した。
[[14世紀]]半ばにオルダの子孫が断絶した後、左翼のハンに即位したトカ・テムルの子孫のひとり[[オロス]]は、同じトカ・テムルの子孫ながら系統を異にするマンギシュラク([[カスピ海]]東岸)の長官トイ・ホージャと対立し、彼を殺害した。
[[1378年]]、トクタミシュはティムールの支援を受けてキプチャク草原に還り左翼の支配者となると、ジョチ・ウルス右翼(東部)のハン、ティムール・メリク(オロスの子とも)をカラタルの戦いで破り、都[[サライ (都市)|サライ]]を征服してジョチ・ウルスのハンに即位した。[[1380年]]には[[クリミア半島]]を本拠地にバトゥ・ウルスの西部で自立していたキヤト部の[[ママイ (キヤト部)|ママイ]]をカルカ河畔の戦いで討ち、ジョチ・ウルスの再統合を達成する。
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