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| image = Leonard Woolley (right) and T.E.Lawrence at the British Museum's Excavations at Carchemish, Syria, in the spring of 1913.jpg
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| caption = レオナード・ウーリー(右)と[[トーマス・エドワード・ロレンス
| birth_date = [[1880年]][[4月17日]]
| birth_place = {{ENG}} [[ロンドン]] [[ハクニー]]
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}}
'''サー・チャールズ・レオナード・ウーリー'''
牧師の息子として[[ロンドン]]のハクニーに生まれた<ref>[http://www.hackney.gov.uk/ep-leonard-woolley.htm ''Sir Leonard Woolley'' (Historic plaque - 13 Southwold Road, E5)] (LB Hackney) 2008年12月12日閲覧</ref>。[[サリー]]にある公立の高校へ通い、[[オックスフォード大学]]で学んだ。1905年、ウーリーは[[オックスフォード]]にあるアシュモレアン博物館で補助学芸員となった。[[アーサー・エヴァンズ]]にコルブリッジ(Corbridge)にあるローマ時代の遺跡の発掘調査員に指名され、ウーリーはここで考古学者としてのキャリアをスタートさせた。後にウーリーは「私はかつて一度も考古学的な方法を勉強したことがなかった。本からさえもだ。どう調査を行うか、どう基本的計画を立てるかさえまったくわからなかった」と言っている。[[トーマス・エドワード・ロレンス
今日の[[イラク]]にあるウルは多くの[[シュメール]]の王族の墓地であった。ウーリーは偉大な墳墓をいくつか発見した。墳墓の中にはシュメール文明がその絶頂期にあったころの大きな壁画が金銀の宝石、コップ、そのほかの服飾品とともに発見された。墳墓の中でも一番豪勢なものは女王Pu-Abiのものであり、それだけでも十分に驚くべき発見なのだが、それに加えてPu-Abiの墳墓は盗掘者たちの手がまったくついていなかった。その墳墓の中からは[[シュメール語]]で彼女の名が刻まれた保存状態のいい[[円筒印章]]が見つかった。女王の遺体は二人の召使とともに埋葬されており、おそらく死後も女王に仕えるために、この召使たちは毒を飲まされて死に至ったと考えられている。ウーリーは見つかった副葬品のおかげで、Pu-Abiの葬儀を再現することができた。今日、女王の頭飾り、円筒印章、女王の遺体はペンシル
1936年、ウルの発掘のあとウーリーは古代[[エーゲ文明]]と[[メソポタミア文明]]の関連性に興味をもち、1937年から1939年まで北シリアの地中海沿岸にあった古代都市Al Minaで、1946年から1949年まで[[アララハ]]での調査を行った。
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[[Category:イギリスの考古学者]]
[[Category:1880年生]]
[[Category:1960年没]]
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[[cs:Leonard Woolley]]
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[[es:Leonard Woolley]]
[[fr:Leonard Woolley]]
[[it:Leonard Woolley]]▼
[[he:לנרד וולי]]
▲[[it:Leonard Woolley]]
[[nl:Leonard Woolley]]
[[pl:Leonard Woolley]]
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