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結果、死者160人、負傷者296人を出す大惨事となった。
 
==事故発生状況==
事故が発生した当日は、早朝に東北地方で発生した地震と、東北本線古河駅で発生した脱線事故の影響で、常磐線のダイヤが乱れており、夜になっても僅かながらダイヤの乱れの影響が残っていた。定刻では、287列車は通常では三河島駅を通過してそのまま下り本線に入るが、下りの取手行2117Hが上野駅出発の時点で2分30秒ほど遅れていた為、三河島駅で2117Hを待避することになった。
 
しかし、機関士は三河島駅の場内信号機の黄信号にも拘らず駅構内へ進入し、出発信号機の赤信号に気付き慌てて非常ブレーキを作動させたものの、減速が間に合わず安全側線に進入し、下り本線を支障する形で脱線した。
 
丁度その頃、2117Hは三河島駅での客扱いを終えて発車し、脱線した現場に差し掛かるところであった。運転士は緊急制動処置を行ったが、間に合わずに機関車に接触、上り線を支障する形で脱線した。
 
この時点では、2117Hは脱線こそしたものの、大きな怪我を負った乗客は居なかった。しかし、1~2両目の車両については、パンタグラフが架線から外れた結果停電となり、乗客は[[桜木町事故]]([[1951年]])の教訓をもとに分かりやすく整備された非常用[[ドアコック]]を操作して列車外へ避難していた。また6両目に乗車していた車掌は、運転士と連絡する為に車内電話を操作したが応答が無かった為、車外に出て連絡を図ろうとしていた。
 
一方、現場近くの三河島駅信号扱所の係員は、事故発生を受けて下り本線の信号を赤に切り替えた上で三河島駅の助役に事故発生を連絡し、助役は常磐線の運転指令に事故発生を通知した。助役は関係箇所に事故発生を通知し、下り線の後続の列車に運行を停止したが、この時点では支障状況が確認されていなかった上り線へは、事故発生通知のみ行った。
 
一方、取手発上野行の2000Hは、地震の影響で定刻より約2分ほど遅れて南千住駅を発車しようとしていた。同じ頃、南千住駅の信号扱所では、三河島駅信号扱所からの上り線支障の電話連絡を受けて、発車信号を赤に変えようとしたが、不幸にも2000Hは信号扱所の前を通過している最中であり、もはや列車を停止する術は無かった。2000Hの運転士は、事故発生を知らずに運転を続け、事故現場の近くに接近したところで、線路上を南千住方向に歩く乗客を確認し、緊急制動を掛けたが間に合わず、乗客を撥ねながら、2117Hの1両目に激突した。
 
2000Hは、先頭車(クハニ67007)が粉砕し、2両目以降は高架下の倉庫に転落して大破した。また2117Hの1両目と2両目も、原型を留めない状態となった。この結果、線路を歩いていて撥ねられた2117Hの乗客と、2000Hの乗客と運転士の合計160名が死亡する大惨事となってしまった。
 
死傷者には、脱線した2000Hから外に出ようとして、高架下に転落した者もあったという。
 
 
==原因==
最初の下り貨物列車の脱線の原因は、[[動力車操縦者|機関士]]の信号誤認とされた。これは錯覚の一つである、[[仮現運動]]によって[[日本の鉄道信号機|信号]]の誤認が起こったという報告がある。
最初の下り貨物列車の脱線の原因は、[[動力車操縦者|機関士]]の信号誤認とされた。これは錯覚の一つである、[[仮現運動]]によって[[日本の鉄道信号機|信号]]の誤認が起こったという報告がある。287列車は通常では三河島駅を通過してそのまま下り本線に入るが、当日は2117Hが遅れていたため、三河島駅で2117Hを待避することになった。しかし機関士は三河島駅の場内信号機の黄信号を見落として駅構内へ進入し、出発信号機の赤信号に気付き<!--場内信号機が注意信号であることを確認しつつ出発信号機の停止信号機を確認しなかったとも…-->慌てて非常ブレーキを作動させたものの、減速が間に合わず安全側線に進入、脱線したとされた。<!-- また、次の推定もなされている。貨物列車は三河島駅の出発側で高架の本線に合流するため地平レベルから右カーブの上り勾配を進行しており、蒸気機関車の機関士席からの視界は悪く、大量の貨車を牽引しているので勾配途中で停車すればその後の起動に苦労するので停車を躊躇した。本線の閉塞信号機が先行列車のために進行現示しているのが見えたので、自分の進路が開通したと錯覚した。-->
 
また、最初の衝突の後、約6分間にわたって両列車の乗務員も三河島駅職員も、上り線に対する列車防護の措置を行わなかったことが、上り2000H電車の突入の原因になった。事故現場は駅構内とはいえ[[プラットホーム|ホーム]]からは遠い地点で暗く、駅員には状況が把握しにくく、上り列車の進入までは短時間であり、列車乗務員が負傷するなど迅速な対応がとりにくかったともいわれる。<ref>交友社『鉄道ファン』1986年8月号(通巻304号) 久保田博 鉄道の安全はどのように守られてきたか - 鉄道保安要史 その8 -</ref>
また、信号は視認していたものの、貨物列車は三河島駅の出発側で高架の本線に合流するため、地平レベルから右カーブの上り勾配を進行しており、蒸気機関車の機関士席からの視界は悪く、大量の貨車を牽引しているので勾配途中で停車すればその後の起動に苦労するので停車を躊躇した、あるいは、本線の閉塞信号機が先行列車のために進行現示しているのが見えたので、自分の進路が開通したと錯覚したという説もある。
 
また、最初の衝突の後、約6分間にわたって両列車の乗務員も三河島駅職員も、上り線に対する列車防護の措置を行わなかったことが、上り2000H電車の突入の原因になった。
 
事故現場は三河島駅からは数百メートル先で、駅員が直接確認する事は困難であった。一方、三河島駅信号扱所の職員は、事故現場により近い位置で勤務していたとは言え、当夜は新月で月明かりが無く、事故の状況を確認するには現場に行って視認するしかなかった為、上り線支障の報告が遅れた事は否めない。また、列車指令が事故発生を確認した時点で、現場付近の上り線の運転を、下り線同様に停止しなかった事も、事故を防げなかった原因とされた。一方、列車乗務員は、貨物列車の機関士は、駅に事故発生を知らせに行き、機関助手は足を負傷して動けず、2117Hの運転士は、事故の際に頭を打って失神したものの、事故直前に運転室から脱出して無事であったが、裁判では、運転室を脱出する事が出来たにも拘らず、2000Hに事故を知らせる行動を取らなかった事で過失に問われた。
貨物列車と下り2117H電車の衝突後、2117H電車の乗客は、[[桜木町事故]]([[1951年]])の教訓をもとに分かりやすく整備された非常用[[ドアコック]]を操作して(車掌がドアスイッチにより開扉したという説もある)列車外へ避難していた。その時点では死者は出ていなかったが、2000H電車が突入した際、線路上に降りていた多数の乗客を巻き込んだことで、これほどにまで人的被害が拡大する結果となってしまった。
<ref>三輪和雄著「空白の5分間 三河島事故 ある運転士の受難」講談社</ref>
 
==事故後==