「モンゴル帝国帝位継承戦争」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
18行目:
こうして、帝国始まって以来初めて大ハーンが2人並び立ち、相争うことになったが、クビライ側に就いた将兵の多くがこの戦争に自分たちの未来を賭けており、戦意旺盛だったのに対し、アリクブケ側はただモンケ以来の[[カラコルム]]政権に逆らわなかっただけという者が多く、戦意に乏しかった。その上、もともとフレグの西征、南宋侵攻という2大遠征でモンゴル高原の兵力はさして多くなく、またクビライが[[華北]]からカラコルムへの輸出を差し止めるという経済封鎖を行ったため、初戦からクビライ側が優勢だった。[[シムルトゥ・ノールの戦い]]にも敗れたアリクブケは窮余の策として、[[アルグ]]をチャガタイ家に派遣し、糧秣をカラコルムに送るように命じたが、アルグはチャガタイ家領に入るとアリクブケに反旗を翻し、アリクブケは東西から挟まれる形となった。
 
追い詰められたアリクブケは、チャガタイ家の本拠地である[[イリ渓谷]]を攻めて占領した。ここでアリクブケは頽勢挽回を図るはずであったが、捕虜にしたチャガタイ家の人間を殺してしまうという致命的なミスを犯してしまう。もともとモンゴル軍は敵に対しては容赦がなかったが、モンゴル」と呼ばれる帝国支配層に組み込まれた集団の成員同じ「モンゴル」成員を殺すということはほとんどなく、それによって強い結束を保っていた。この処置に部下たちの多くはアリクブケを見限り、また明らかに劣勢なアリクブケを救おうという勢力はなく、アリクブケは孤立無援に陥った。
 
[[1263年]]、イリ渓谷で飢饉が起こると、アリクブケ軍は完全に解体し、翌[[1264年]]にアリクブケはクビライに降伏、足かけ4年にわたる帝位(大ハーン位)継承戦争は終結した。