2022年5月24日 (火)
- 15:002022年5月24日 (火) 15:00 差分 履歴 +5,315 N 張鯨 ←新しいページ: 「'''張鯨'''(ちょう げい、? - 1215年)は、金末の群雄の一人。 == 概要 == 1213年よりチンギス・カンの金朝侵攻が始まると、事実上金朝から見放された華北は荒廃し、各地で人望ある指導者が自立するようになった(後の漢人世侯)。1214年末、錦州に住まう張鯨は10万余りの配下を集めて金朝の節度使…」 タグ: 曖昧さ回避ページへのリンク
2022年5月20日 (金)
- 23:042022年5月20日 (金) 23:04 差分 履歴 +1,928 N 石抹庫禄満 ←新しいページ: 「'''石抹庫禄満'''は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。 == 概要 == 庫禄満は早くから金朝を見限りモンゴル帝国に仕えた石抹エセンの息子石抹査剌の息子で、父が亡くなった後にその地位を継いだ。しかし、1262年(中統3年) に李璮の乱が起こると叛乱討伐のため出陣したが、その中で流れ矢に当たり戦死してしまっ…」
- 22:582022年5月20日 (金) 22:58 差分 履歴 +4,204 N 石抹査剌 ←新しいページ: 「'''石抹査剌'''は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。 == 概要 == 石抹査剌は最初期にモンゴル帝国に投降した契丹人の一人石抹エセンの長男であった<ref>『元史』巻150列伝37石抹也先伝,「[石抹也先]後従国王木華黎攻蠡州北城、先登、中石死、時年四十一。子四人曰査剌、曰咸錫、曰博羅、曰侃」</ref>。 査剌は弓矢に優れた…」
- 22:352022年5月20日 (金) 22:35 差分 履歴 +8,068 N 石抹エセン ←新しいページ: 「'''石抹エセン'''(せきまつ エセン)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。 漢文史料上では'''石抹也先'''と'''石抹阿辛'''という二通りの表記があり、『元史』は誤って両方の列伝を立てている。 == 概要 == エセンはキタイ帝国(遼朝)の歴代皇后を輩出した審密=石抹氏(漢風には蕭氏)<ref>愛宕は審密=石抹氏はシャル…」
- 13:502022年5月20日 (金) 13:50 差分 履歴 +4,069 N 耶律忙古帯 ←新しいページ: 「'''耶律 忙古帯'''(やりつ マングタイ)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。 == 概要 == マングタイはモンゴル帝国草創期の功臣トガン(耶律禿花)の子孫であった。トガンの地位を継承したのは嫡子のジュゲ(耶律朱哥)であったが、 ジュゲが早世しその息子の宝童が病弱であったためにトガン家惣…」
- 12:442022年5月20日 (金) 12:44 差分 履歴 +3,346 N 耶律禿満答児 ←新しいページ: 「'''耶律 禿満答児'''(やりつ トゥメンデル)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。 == 概要 == トゥメンデルはモンゴル帝国草創期の功臣トガン(耶律禿花)の息子バイジュ(買住)の息子で、兄には百家奴、弟には忽林帯がいた。トガンの死後、トガン家では短命もしくは病弱な当主が続いており、トガンの嫡男ジ…」
- 11:532022年5月20日 (金) 11:53 差分 履歴 +4,188 N 耶律朱哥 ←新しいページ: 「'''耶律 朱哥'''(やりつ ジュゲ)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。 == 概要 == ジュゲは遼の宗室の末裔で、モンゴル帝国草創期の功臣であるトガン(耶律禿花)の息子であった。 ジュゲは父が亡くなるとその地位を継承し、引き続き陝西・四川方面への出兵に尽力した。この頃、モンゴル帝国では…」 タグ: 曖昧さ回避ページへのリンク
- 10:162022年5月20日 (金) 10:16 差分 履歴 +1 m 耶律古乃 編集の要約なし 最新
2022年5月19日 (木)
- 11:432022年5月19日 (木) 11:43 差分 履歴 +3,999 N 耶律善哥 ←新しいページ: 「'''耶律 善哥'''(? - 1264年)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。 == 生涯 == 善哥は金末に自立して東遼を建国した耶律留哥の息子の一人で、耶律留哥の地位を継承したセチェ(薛闍)の弟にあたる。1220年(庚辰)に耶律留哥が死去した時、後を継ぐべきセチェはモンゴル軍に従軍して中央アジア方面…」
- 11:222022年5月19日 (木) 11:22 差分 履歴 +1,862 N 耶律古乃 ←新しいページ: 「'''耶律 古乃'''(1234年 - 1269年)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。 == 生涯 == 古乃は金末に自立して東遼を建国した耶律留哥の曽孫で、 父の収国奴が1259年(己未)に亡くなった後に地位を継いだ。おりしも、モンゴル帝国では1260年(中統元年)よりクビライとアリク・ブケによるモン…」
2022年5月18日 (水)
- 14:432022年5月18日 (水) 14:43 差分 履歴 +575 m テゲ・コルチ 編集の要約なし 最新
- 14:412022年5月18日 (水) 14:41 差分 履歴 +142 蒲鮮万奴 ペルシア語表記を追記 最新
- 14:282022年5月18日 (水) 14:28 差分 履歴 0 m Category:モンゴル帝国の契丹人 編集の要約なし 最新
- 14:272022年5月18日 (水) 14:27 差分 履歴 +159 m 新元史 編集の要約なし 最新
- 14:142022年5月18日 (水) 14:14 差分 履歴 +44 m 耶律有尚 編集の要約なし
- 14:142022年5月18日 (水) 14:14 差分 履歴 +44 m 耶律希亮 編集の要約なし
- 14:132022年5月18日 (水) 14:13 差分 履歴 +44 m 耶律鋳 編集の要約なし
- 14:132022年5月18日 (水) 14:13 差分 履歴 +44 m 耶律楚材 編集の要約なし
- 14:122022年5月18日 (水) 14:12 差分 履歴 +44 m 石抹明安 編集の要約なし
- 14:112022年5月18日 (水) 14:11 差分 履歴 +44 m 耶律阿海 編集の要約なし
- 14:112022年5月18日 (水) 14:11 差分 履歴 +44 m 耶律禿花 編集の要約なし
- 14:102022年5月18日 (水) 14:10 差分 履歴 +44 m 移剌捏児 編集の要約なし
- 14:102022年5月18日 (水) 14:10 差分 履歴 +44 m 移剌買奴 編集の要約なし
- 14:092022年5月18日 (水) 14:09 差分 履歴 +44 m 王珣 (元) 編集の要約なし
- 14:092022年5月18日 (水) 14:09 差分 履歴 +44 m 王栄祖 編集の要約なし
- 14:092022年5月18日 (水) 14:09 差分 履歴 +44 m 耶律薛闍 編集の要約なし
- 14:082022年5月18日 (水) 14:08 差分 履歴 +44 耶律留哥 編集の要約なし
- 14:082022年5月18日 (水) 14:08 差分 履歴 +44 m 耶律収国奴 編集の要約なし
- 14:072022年5月18日 (水) 14:07 差分 履歴 +149 N Category:モンゴル帝国の契丹人 ←新しいページ: 「モンゴル帝国に仕えた契丹人に関するカテゴリ。 Category:契丹 ういくる」
- 14:052022年5月18日 (水) 14:05 差分 履歴 +4,074 N 移剌元臣 ←新しいページ: 「'''移剌 元臣'''(いらつ げんしん、? - 1293年)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。 == 概要 == 移剌元臣は最初期にモンゴル帝国に降った移剌捏児の息子移剌買奴の息子であった。 元臣は父同様に16歳にして宿衛(ケシクテイ)に入ったが、応対に優れていたため、クビライは丞相のコルコスンに「この勲…」
- 13:102022年5月18日 (水) 13:10 差分 履歴 +2,679 N 耶律収国奴 ←新しいページ: 「'''耶律 収国奴'''(? - 1259年)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。 == 生涯 == 収国奴は金末に自立して東遼を建国した耶律留哥の嫡子耶律薛闍(セチェ)の息子であった。セチェは早くから質子(トルカク)としてモンゴル軍に属して東遼から離れていたため、収国奴は祖父母の下で育てられた。 収国奴は1226年(…」
- 12:272022年5月18日 (水) 12:27 差分 履歴 0 m 耶律薛闍 カラ がページ「薛闍」を「耶律薛闍」に移動しました: 姓(耶律)が抜け落ちていたため
- 12:232022年5月18日 (水) 12:23 差分 履歴 +5,970 N 耶律薛闍 ←新しいページ: 「'''耶律 薛闍'''(やりつ セチェ、? - 1237年)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。 == 生涯 == 薛闍は金末に自立して東遼を建国した耶律留哥の嫡男で、留哥がモンゴルに服属した後は質子(トルカク)として親元を離れモンゴル軍に仕えた。 1220年(庚辰)に留哥が死去すると、妻の姚里氏は西アジア遠征中であった…」
- 12:232022年5月18日 (水) 12:23 差分 履歴 +155 m 耶律留哥 編集の要約なし
2022年5月17日 (火)
- 14:332022年5月17日 (火) 14:33 差分 履歴 +4,562 N 移剌買奴 ←新しいページ: 「'''移剌 買奴'''(いらつ マイヌ、? - 1228年)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。 == 概要 == 買奴は早くから父の移剌捏児に従ってモンゴルの征服戦争に参加しており、 初めてチンギス・カンに満見した際に「汝は年少であるが、父の爵位を継ぐことはできるか?」と問いかけられたところ、「臣はたしかに年少でありま…」
2022年5月15日 (日)
- 15:202022年5月15日 (日) 15:20 差分 履歴 +6,508 N 移剌捏児 ←新しいページ: 「'''移剌捏児'''(? - 1228年)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。 == 概要 == 移剌捏児は幼い頃から大志があり、脊力にも優れた人物であった。金朝が健在だった頃には参議・留守などの官に推されたこともあったが、いずれも固辞していたという。北方でチンギス・カンがモンゴル帝国を建国すると、親族たちに対して「…」 タグ: 曖昧さ回避ページへのリンク
- 14:552022年5月15日 (日) 14:55 差分 履歴 +17 m 王栄祖 編集の要約なし
- 14:552022年5月15日 (日) 14:55 差分 履歴 +7,186 N 王栄祖 ←新しいページ: 「'''王栄祖'''(おう えいそ)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。遼東地方・高麗国・大真国など東北アジア方面の平定に尽力したことで知られる。 == 概要 == 王栄祖はチンギス・カンによる最初の金朝遠征時にモンゴル帝国に降った王珣の長子で、父同様に武勇に長けることで知られていた。王珣が初めてムカ…」
2022年5月13日 (金)
- 01:192022年5月13日 (金) 01:19 差分 履歴 +8,323 N テゲ・コルチ ←新しいページ: 「'''テゲ・コルチ'''({{Lang-mn|Tege Qorči}},? - ?)とは、モンゴル帝国の将軍の一人。金末にマンチュリアで自立して大真国を建国した蒲鮮万奴の息子にあたる。 史料によって様々な表記がされており、『元史』では'''帖哥'''、『高麗史』では'''迪巨'''と表記される。また、『国朝文類』の「元高麗記事」には「帖哥火里赤」…」
2022年5月10日 (火)
- 00:072022年5月10日 (火) 00:07 差分 履歴 +6,818 N 王珣 (元) ←新しいページ: 「'''王珣'''(おう しゅん)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。当初は金朝に仕えていたが、金末の混乱期に自立し、後にモンゴル帝国に降った。本拠地のある遼西地方の平定に貢献したことで知られる。 == 概要 == 王珣の祖先は元々遼(契丹国)を建国した耶律氏の出であった。しかし、王珣の祖父耶律成は金朝の…」 タグ: 曖昧さ回避ページへのリンク
2022年5月9日 (月)
- 23:412022年5月9日 (月) 23:41 差分 履歴 +38,048 蒲鮮万奴 主に池内1943に基づき、全面改稿 タグ: サイズの大幅な増減 曖昧さ回避ページへのリンク
- 23:032022年5月9日 (月) 23:03 差分 履歴 +5,927 N ムハンマド3世 (ニザール派) ←新しいページ: 「'''アラー・ウッディーン・ムハンマド'''({{lang-fa|امام علاء الدین محمد}},Imam 'Ala al-Din Muhammad,1213年 - 1255年)は、イスラム教シーア派のイスマーイール派から派生したニザール派の第7代指導者(イマーム,在位:1221年-1255年)。'''ムハンマド三世'''とも。 == 生涯 == ペルシア人史家のアラーウッディーン・アター…」
2022年5月2日 (月)
- 23:072022年5月2日 (月) 23:07 差分 履歴 +996 天泰 後代の出土遺物に関して加筆
2022年4月29日 (金)
- 23:022022年4月29日 (金) 23:02 差分 履歴 +216 モンゴルの神聖ローマ帝国侵攻 画像の追加 最新
2022年4月21日 (木)
2022年4月12日 (火)
- 14:312022年4月12日 (火) 14:31 差分 履歴 +9,297 N バクシ ←新しいページ: 「'''バクシ'''(モンゴル語:{{mongol|ᠪᠠᡴ᠋ᠰᡳ}},転写:Baqsi)は、「(主に宗教上の)師/師父」を意味するモンゴル語。漢語の「博士」がウイグル語を経てモンゴル語に入ったものであるが、モンゴル帝国が広大な領土を支配したことにより東アジア以外のユーラシア大陸各地でも用いられた。その意味するところは時…」 タグ: 曖昧さ回避ページへのリンク
2022年4月11日 (月)
- 12:432022年4月11日 (月) 12:43 差分 履歴 +5,541 N 立智理威 ←新しいページ: 「'''立智理威'''(1254年 - 1310年)とは、モンゴル帝国に仕えたタングート人の一人。 == 概要 == 立智理威は「チンギス・カンの親衛千人隊長」として著名なチャガンの「従孫」で、ナヤンの乱鎮圧などに活躍したイレグ・サカルの弟に当たる<ref>『元史』巻120列伝7亦力撒…」
2022年3月23日 (水)
- 12:062022年3月23日 (水) 12:06 差分 履歴 +29 m ハトゥン 編集の要約なし タグ: 曖昧さ回避ページへのリンク
- 12:022022年3月23日 (水) 12:02 差分 履歴 +131 m メクリン 編集の要約なし
- 12:002022年3月23日 (水) 12:00 差分 履歴 −20 オゴデイ 編集の要約なし