「カラ・スゥ平原の戦い」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
'''カラ・スゥ平原の戦い'''とは[[1270年]][[フレグ・ウルス]]第二代君主[[アバカ]]とムバーラク・シャーからチャガタイ家当主の座を奪った[[バラク]]との間で行われた戦い。この戦いでアバガは大勝しフレグ・ウルスの基盤を強固なものとした。
 
== 概要背景 ==
バラクはタラス会盟においてジョチ家の当主[[モンケ・テムル]]とオゴデイ家の[[カイドゥ]]とともに当時混乱状態にあった[[中央アジア]]を分割したものの現状に満足せず、カイドゥに勧められるままに西方への遠征を決意した。もともと[[ジョチ・ウルス]]などとは違いフレグ・ウルスは第四代[[大ハーン]][[モンケ]]の死去とそれに伴う帝国内の混乱([[モンゴル帝国帝位継承戦争|帝位継承戦争]])に紛れて成立したもので正当性は薄く、[[イラン]]の地の富への羨望も重なって中央アジアのチャガタイ家、オゴデイ家の諸勢力は続々とバラクに合流しバラクの軍はたちまち大勢力となった。
 
一方、フレグ・ウルスはまだ成立したばかりの上、[[マムルーク朝]]とジョチ・ウルスとの対立を抱えており動員できる兵力はバラク軍に比べ圧倒的に少なかった。しかし、アバカはバラク軍を撃退することを決定、[[1270年]]四月[[アゼルバイジャン]]を出発し途中軍勢を整えながら[[ホラーサーン]]方面へと進軍を開始した。途中アバカは一度捕らえた間諜をわざと離すことでバラク軍に対し罠を張った。急いでバラクの下に戻った間諜はアバカ軍が進軍はしてきたもののバラク軍を恐れて退却を始めたと報告し、これを裏付けるかのようにアバカがわざと放棄した天幕や食料が発見されたことで、元々あまりの大軍に浮かれていたバラク軍の首脳部はアバカ軍の解体をあっさりと信じた。会戦を覚悟していた将兵の緊張は緩み、酒宴が行われるなどすっかり油断した状態で進軍が続けられた。一方アバカはカラ・スゥ([[テュルク語]]で「黒い水」の意)という川の流れる平原を戦場に決めバラク軍を待ちかまえた。突如出現したアバカ軍にバラクはさすがに動揺したが、かろうじて隊列を整えて戦いに挑み、遂にモンゴル帝国史上屈指の規模の会戦が始まった。
 
== 経過 ==
 
戦闘が始まるとまずバラク軍の将軍マルガーウルが戦死してしまい、将軍ジャライルタイは将兵の士気の低下を防ぐためバラクの許しを得てアバカ軍の弱点である、イラン兵を含む混成部隊である左翼に突撃しこれを潰走させ、そのまま追撃した。しかしアバカ軍の中軍・右翼はバラク軍の攻撃をかろうじて持ちこたえ、アバカは弟のヨシュムトに命じて左翼を補強させ、追撃に全力を注いでおり、隊列の乱れつつあったジャライルタイ軍を撃退した。戦況は依然としてバラク軍が優勢ではあったものの、ついにアバカは全軍に総攻撃を命じた。この時九十歳を越える老将ノヤン・スニタイが戦場のさなかで床几に腰をおろし、アバカへの報恩を説いた上で「勝利か、然らずんば死あるのみ」と将兵を叱咤激励したことでアバガ軍の士気は大いに高まり、遂に三度目の突撃でバラク軍は潰走を始めた。烏合の衆となったバラク軍をアバカは追撃しその多くを討ち取ったが、ジャライルタイ軍が必死で退路を確保したこともありバラクはなんとか単身[[ブハラ]]に辿り着いた。しかし、残った部下の多くは彼を見限りカイドゥに服属し、バラク自身も再び対立関係に戻ったカイドゥとの会談の前夜に急死した(カイドゥに毒殺されたとする説が有力である)。こうして中央アジア方面は再び混乱状態に戻ったものの逆にフレグ・ウルスはその勝利によって基盤を強固なものとした。
15 ⟶ 17行目:
*[[カイドゥ]]
*[[フレグ・ウルス]]
*[[チャガタイ・ウルス]]
 
{{DEFAULTSORT:からすうへいげんのたたかい}}