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Point136 (会話 | 投稿記録)
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1971年、早稲田同窓の後藤由多加に誘われ、ユイ音楽工房の設立に参加する。同事務所では、[[かぐや姫 (フォークグループ)|かぐや姫]]を担当する。「[[神田川 (シングル)|神田川]]」がディレクターとして最初に成功した楽曲となる。しかし、日本のフォークが嫌になり、[[大森昭男]]のONアソシエイツに移籍する。
 
CM音楽制作にあたり、三浦から聴かされていた[[大滝詠一]]を大森に推薦する。大滝がコーラスに連れてきた[[シュガーベイブ]]に注目し、シュガーベイブと[[センチメンタル・シティ・ロマンス]]のマネージメントとプロモーションをする会社“アワ・ハウス”を興す。しかし、シュガーベイブが突然解散することになり、[[山下達郎]]・[[大貫妙子]]をソロ・デビューさせる。山下“[[CIRCUS TOWN]]”(76年)、大貫“グレイスカイズ”(76年)、“サンシャワー”(77年)を制作するも、資金が底をつき“アワ・ハウス”は倒産する。その後、新宿ロフトの“ロフト・レーベル”に協力しているときに知り合った[[川原伸司]]から、[[杉真理]]のバックコーラスをしていた[[竹内まりや]]を紹介される。竹内まりやの“[[BEGINNING]]”(78年)、“[[UNIVERSITY STREET]]”(79年)、“LOVE SONGS”(80年)のプロデュースを担当する。
 
1980年代に入ると、[[細野晴臣]]が主宰する[[ノン・スタンダード]]・レーベルでディレクターとして活動し、[[小西康陽]]率いる[[ピチカート・ファイヴ]]や[[鈴木惣一朗]]率いる[[ワールドスタンダード]]らを輩出。
 
その後[[ポリスター]]レコードに移籍し、1990年代には[[フリッパーズ・ギター]]や[[L⇔R]]を世に送り出した。