「イェンス・フォイクト」の版間の差分
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| 特徴 = [[ルーラー]]<br>[[オールラウンダー (自転車競技)|オールラウンダー]]
| プロ年代 = 1997<br>1998-2003<br><br>2004-<br><br>
| プロ所属チーム = ZVVZジャイアント<br>
| 主要レース勝利 = [[ジロ・デ・イタリア]] 通算1勝<br>[[ツール・ド・フランス]] 通算2勝<br>[[ドイツ・ツアー]] (2006,2007)<br>[[ツール・ド・ポローニュ]] (2008)
| 更新日 = [[2009年]][[6月13日]]
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当時の[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]・[[ロストック県]](現在の[[メクレンブルク=フォアポンメルン州]])グレーフェスミューレンに生まれる。ちなみに[[ヤン・ウルリッヒ]]もこの地方([[ロストック]])の出身である。1994年にはアマチュア選手にとって大きなタイトルとなる[[ピースレース]]に優勝した。
[[兵役]]を終えたのち、1997年にプロに転向、[[オーストラリア]]のZVVZジャイアントの所属となった。翌年には[[フランス]]の
2004年には[[デンマーク]]のチームCSC(現在の[[チーム・サクソバンク]])に移籍。この年の[[ツール・ド・フランス2004|ツール・ド・フランス]]では[[イヴァン・バッソ]]のアシストとして何度も見せ場を作り、あらためてその存在感を見せつけた。2005年の[[ツール・ド・フランス2005|ツール・ド・フランス]]では第9ステージでクレディ・アグリコ
2006年にはチームの中心選手の一人としてバッソの[[ジロ・デ・イタリア2006|ジロ・デ・イタリア]]制覇に貢献。特に19ステージの山岳では逃げ集団のチェックに入り、[[クイックステップ (自転車競技)|クイックステップ]]チームの[[フアン・マヌエル・ガラテ]]の付き位置でゴール前まで2人で逃げ切るという走りを見せた。このステージでのフォイクトはバッソをアシストするため、逃げ集団を全く引かなかった。逃げ集団が崩壊して総合優勝争いに無関係なガラテだけが残った段階でフォイクトの仕事は終了となった。フォイクトはガラテの健闘に敬意を表して、ゴール前でのスプリント勝負を仕掛けなかった。このフォイクトの配慮もあってガラテはこの年のジロ・デ・イタリアの山岳賞を獲得、フォイクトが最後にガラテの背中を叩いてステージ優勝を譲ったシーンは多くのファンを感動させた。
その後エースとして出場した[[ドイツ・ツアー]]では見事に総合優勝を果たし、翌2007年にも総合優勝して、史上初のドイツ・ツアー2連覇を遂げている。
2008年には[[ジロ・デ・イタリア2008|ジロ・デ・イタリア]]の第18ステージで逃げ集団に乗り、最終的には逃げ集団からも飛び出して素晴らしい速度で走り続け、見事に単騎逃げを決めた。このステージは[[パオロ・ベッティーニ]]がジロ・デ・イタリアでステージ優勝を取る最後のチャンスと目されており、またステージ中盤の山岳で遅れかけたフォイクトをベッティーニが逃げ集団に引き戻す動きを見せたことから、フォイクトの逃げ切り勝利は驚きの目で見られた。
[[2008年]]の[[ツール・ド・フランス2008|ツール・ド・フランス]]では、中盤から後半にかけて活躍し[[カルロス・サストレ]]の総合優勝に貢献した。ちなみに最終ステージでは、シャンゼリゼでの周回レース終盤にシートポストがヤグラ付近から折れたため、立ち漕ぎをしているシーンがテレビ中継で映し出された。
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その後、前人未到のドイツツアー3連覇に挑んだものの、山岳ステージの第1ステージで大きく遅れを取り、総合優勝を諦めざるを得なかった。しかし、直後の[[ツール・ド・ポローニュ2008|ツール・ド・ポローニュ]]では山岳の第6ステージで実力を遺憾なく発揮し、総合優勝に輝いた。
2009年の[[ツール・ド・フランス2009|ツール・ド・フランス]]では何度も逃げに加わって多くの見せ場を作ったが、第16ステージ終盤
== 脚質 ==
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