「ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)」の版間の差分

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[[ファイル:Grand Duke Nicholas - Project Gutenberg eText 16363.jpg|thumb|right|250px|ニコライ・ニコラエヴィチ大公]]
'''ニコライ・ニコラエヴィチ'''([[ロシア語]]:Никола́й Никола́евич, 1856年11月6日 - 1929年1月5日)は、[[ロシア帝国|ロシア]]の皇族、[[ロシア大公]]。皇帝[[ニコライ1世]]の孫。[[第1次世界大戦]]開戦時にロシア帝国軍最高司令官を務めて[[ドイツ帝国|ドイツ]]および[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー]]との戦いを指揮したが、1915年に解任され、その後は[[カフカース]]方面軍の司令官を務めた。騎兵大将
 
== 生涯 ==
ニコライ大公はロシア皇帝ニコライ1世の三男[[ニコライ・ニコラエヴィチ (1831-1891)|ニコライ・ニコラエヴィチ]]大公と、その妻[[アレクサンドラ・ペトロヴナ]]大公妃との間に生まれた。ニコライは父と名前および父称が全く同じであるため、息子のニコライには「若い」を意味するムラートシ(Мла́дший)(Младший)を付け、父のニコライには「年長」を意味するスタルシー(Старший)を付けて区別する場合がある。父大公も軍人であり、1877年の[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]では元帥としてドナウ川方面での戦いを指揮した。
 
また、ニコライはロシア皇帝[[ニコライ2世]]の同族の従叔父にあたった。皇帝一族はこの2人をも区別するため、ニコライ大公を「ニコラーシャ」と呼び、皇帝の方を「ニッキー」と呼んでいた。またニコライ大公は長身で、小柄なニコライ2世とは非常に身長差があったため、前者を「背の高いニコライ」、後者を「背の低いニコライ」と呼んで区別する場合もあった。
 
=== 軍歴、政治的役割 ===
ニコライは、ニコライ工兵学校で学び、18721873年に任官した。1876年、ニコライ参謀本部アカデミーを卒業。1877年に始まった[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]では総司令官を務める父の参謀を務めた。ニコライはこの戦争で2度戦功を立て、四等聖ゲオルギー勲章と金製武器を授与されている。1878年、近衛驃騎兵連隊に配属され、中隊長、大隊長を務め、1884年には連隊長に任じられた。ニコライは軍人として順調に出世、1884189011月は近第2親軍驃騎兵連隊の司令官師団第2旅団長、同年12月任じられ師団長となった。大公は気骨のある司令官と評価され、また麾下の軍隊の尊敬を集めてもいた。彼は戦闘における指揮官というよりは兵士の訓練教官に向いた性格だった。
 
ニコライは非常に信心深い人物であり、朝でも夜でも食前食後は祈りを欠かすことが無かった。田舎にいるのが大好きで、自分の領地の管理をしたり狩猟をするのを趣味にしていた。また穏健派ではあったが、[[汎スラヴ主義]]を奉じる国粋主義者だった。
 
1895年、ニコライは騎兵隊の監察総監を務めることになり、以後10年間この職務にあった。監察騎兵総監の地位にあるあいだ、ニコライは将兵の訓練と騎兵学校の改革を行い、騎兵と騎馬のより効率よく供給・確保するよう努めて、成功をおさめることが出来た。ニコライ大公は[[日露戦争]]では司令官の地位を与えられなかったが、これには皇帝ニコライ2世の思惑があった。皇帝はもし皇族を司令官として敗北した場合にロシア帝室の威信が傷つけられるのを避けようとしたのと、国内情勢が不安な時に、忠誠心厚い将軍をそばに置いておきたいと考えたのだった。このため、ニコライ大公は戦場で采配を振るう機会を逸した。1905年6月、陸軍と海軍の活動を調整する国家防衛会議(1908年7月に解散)議長に就任し、[[ロシア帝国軍参謀本部|参謀本部]]の[[ロシア帝国軍事省|軍事省]]からの分離を実現した。
 
ニコライ大公は1905年の[[ロシア第一革命]]では極めて重要な役割を果たすことになった。無政府状態が拡大し、[[ロマノフ王朝]]の未来が風前のともしびとなりつつある中で、皇帝ニコライ2世は[[セルゲイ・ヴィッテ]]伯爵の提案する立憲君主政体への改革案を受け入れるか、軍事独裁体制をしくかの選択を迫られた。大公は皇帝が軍事独裁のクーデタを起こす場合でも、軍隊の忠誠を皇帝につなぎ止めておける唯一の人物であった。皇帝は後者の選択肢を選び、ニコライ大公に軍事独裁官の地位を与えようとした。しかしニコライ大公は独裁官に就任するのを拒否し、おもむろにピストルを取り出すと自分のこめかみに銃口をあて、もしヴィッテ伯爵の改革案を了承しないのならば、この場で自殺すると皇帝を脅したのである。大公の脅しに動揺したニコライ2世は、立憲君主制への改革に踏み出すことを決意した。
 
1905年から第1次大戦開始まで、ニコライ大公は、親衛隊と[[サンクト・ペテルブルク]]軍管区の総司令官を務めていた。大公は低い出自の者でも分け隔てなく高い地位に取り立てたので、評判を高めた。敗北に終わった日露戦争の屈辱を、大公は自分の部下たちにしっかりと覚えておかせた。
 
1907年、ニコライ大公はモンテネグロ王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の娘[[アナスタシア・ニコラエヴナ (1868-1935)|アナスタシヤ・ニコラエヴナ]]と結婚した。アナスタシヤはニコライ大公自身の弟[[ピョートル・ニコラエヴィチ|ピョートル]]大公の妻[[ミリツァ・ニコラエヴナ]]大公妃の妹で、ロイヒテンベルク公爵と離婚したばかりだった。この結婚は幸福なものとなった。大公夫妻はどちらも非常に敬虔な[[正教徒]]であり、また二人とも[[神秘主義]]に傾倒していた。アナスタシヤは出身国[[モンテネグロ]]の反[[トルコ]]感情の強い環境で育ったためか、極端なスラヴ民族主義者であり、このことは大公の[[汎スラヴ主義]]志向にますます拍車をかけた。大公夫妻には子供はいなかった。
 
=== 第1次世界大戦 ===
[[ファイル:Nikolai II i Nikolai Nikolaevic 29 iun 1913 Karl Bulla.jpg|thumb|right|250px|皇帝[[ニコライ2世]]とニコライ大公、最前列にいる人物が皇帝、中央の最も背の高い人物がニコライ大公、1913年]]
第1次世界大戦に向けた作戦計画と戦争準備は[[ウラジーミル・スホムリノフ]]とその幕僚たちの責任のもとで行われていたため、ニコライ大公はこの時点では何の役割も担っていなかった。第1次大戦がいよいよ始まる段になって、自分が最高司令官を務める気でいた[[ニコライ2世]]は、やめてほしいという大臣たちの懇願に根負けし、1914年7月20日、従叔父のニコライ・ニコラエヴィチ大公を帝国軍最高司令官に任じた。ニコライ大公は57歳になっていたが、まだ戦場で総司令官として采配を振るったことは一度もなかった。彼は自分がこれまで一度も率いたことのない規模の巨大な軍隊を統率する責務を負わされた。
 
ニコライ大公はドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコなど[[中央同盟国]]と戦う全ロシア帝国軍の最高責任者だった。大戦開始直後から、ニコライ大公は苦戦を強いられた。[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]]では、第1軍と第2軍との連携がうまくいかなかったたために、壊滅的な敗北を喫した。一方で続いて起きた[[ヴィスワ川の戦い]]と[[ウッチの戦い (1914年)|ウッチの戦い]]では、ロシア軍が勝利を得た。大勢のロシア将軍たちが様々な作戦プランを決めていく場において、ニコライ大公の役割は限られたものとなった。大公とその参謀からは勝利する公算の大きそうな、首尾一貫した作戦計画が出されることはなかったが、大公は個人のレベルでは将官にも一般兵士にも好かれていた。
 
ニコライ大公は軍事指導者というより官僚に近い性格だったようで、幅広く戦略的な視点や巨大なロシア全軍を率いる者に求められる冷酷さを持ち合わせていなかった。彼の司令部は、沢山の敗北を喫し大勢の戦死者を出しているにもかかわらず、戦時とは思えないほど平穏な雰囲気であった。このまま大公に任せてもロシア軍の苦境は好転しないと考えたらしい皇帝は、自ら戦争の最高責任者を引き受けようと決意した。1915年3月22日、大公は[[プシェムィシル攻囲戦]]に勝利して二等[[聖ゲオルギー勲章]]2等勲章を授与された。しかしその5か月後の8月21日、ロシア軍が戦略的撤退を行った際に、皇帝は(皇帝一家の精神的支柱となっていた[[グリゴリー・ラスプーチン]]の助言を受けて)大公を解任し自ら最高司令官に就任した。
 
大公は最高司令官職を解かれてまもなく、[[カフカース]]地方の総司令官および副王に任じられた(それまでこの地域で采配をふるっていたのは[[イラリオン・ヴォロンツォフ=ダーシュコフ]]伯爵だった)。公式にはニコライ大公が総司令官だったものの、[[オスマン帝国]]との戦いを担うカフカース方面軍を実質的に指揮していたのは[[ニコライ・ユデーニチ]]将軍であった。大公の総司令官在職中に、カフカース方面のロシア軍は遠征軍を派遣し、遠征軍は[[ペルシア]]を通過して南側にいたイギリス軍と合流した。1916年、ロシア軍は[[エルズルムの戦い]]に勝利して[[エルズルム]]要塞、[[トレビゾンド]]港、[[エルズィンジャン]]を占拠した。トルコ軍はさらに攻勢をかけ、両軍は[[ヴァン湖]]周辺で一進一退を繰り返したが、決着はつかなかった。