ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)

ロシア大公・陸軍騎兵大将

ニコライ・ニコラエヴィチロシア語: Никола́й Никола́евич, ラテン文字転写: Nicholas Nikolaevich, 1856年11月6日 - 1929年1月5日)は、ロシア皇族陸軍軍人政治家ロシア大公。皇帝ニコライ1世の孫。第一次世界大戦開戦時にロシア帝国陸海軍最高司令官ロシア語版[1]カフカース総督ロシア語版カフカース軍ロシア語版総司令官(1915年 - 1917年)、ロシア全軍連合議長(1924年 - 1929年)を歴任。軍人としての最終階級は陸軍騎兵大将

ニコライ・ニコラエヴィチ
Никола́й Никола́евич
ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家
ニコライ・ニコラエヴィチの肖像写真(1914年)

称号 ロシア大公
敬称 殿下
出生 (1856-11-06) 1856年11月6日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
サンクトペテルブルク
死去 (1929-01-05) 1929年1月5日(72歳没)
フランスの旗 フランス共和国
アルプ=マリティーム県アンティーブ
埋葬 1929年
フランスの旗 フランス共和国
アルプ=マリティーム県カンヌ
2015年4月30日
ロシアの旗 ロシアモスクワ(改葬)
配偶者 アナスタシア・ニコラエヴナ
家名 ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家
父親 ニコライ・ニコラエヴィチ
母親 アレクサンドラ・ペトロヴナ
役職 ロシア全軍連合議長
(1928年 - 1929年)
カフカース総督
(1915年 - 1917年)
カフカース軍総司令官
(1915年 - 1917年)
陸海軍最高司令官
(1914年 - 1915年)
国家防衛会議議長
(1905年 - 1908年)
陸軍騎兵大将
宗教 キリスト教ロシア正教会
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称号:大公
敬称 殿下
His Imperial Highness

第一次世界大戦開戦時にロシア帝国軍最高司令官を務めてドイツおよびオーストリア=ハンガリーとの戦いを指揮したが、1915年に解任され、その後はカフカース方面軍の司令官を務めた。

生涯 編集

ニコライ大公はロシア皇帝ニコライ1世の三男ニコライ・ニコラエヴィチ大公と、その妻アレクサンドラ・ペトロヴナ大公妃との間に生まれた。ニコライは父と名前および父称が全く同じであるため、息子のニコライには「若い」を意味するムラーチー(Младший)を付け、父のニコライには「年長」を意味するスタールシー(Старший)を付けて区別する場合がある。父大公も軍人であり、1877年の露土戦争では元帥としてドナウ川方面での戦いを指揮した。

また、ニコライはロシア皇帝ニコライ2世の同族の従叔父にあたった。皇帝一族はこの2人をも区別するため、ニコライ大公を「ニコラーシャ」と呼び、皇帝の方を「ニッキー」と呼んでいた。またニコライ大公は長身で、小柄なニコライ2世とは非常に身長差があったため、前者を「背の高いニコライ」、後者を「背の低いニコライ」と呼んで区別する場合もあった。ニコライ2世とは折り合いが悪く、自分自身が皇帝であるべきと思っていたと知られている。また、ニコライ2世の妻、アレクサンドラを忌み嫌っていたといわれる。思想的にはリベラル派として知られ、ドゥーマ(国会)のリベラル派やリベラルなビジネス社会、そしてそれらの人達を支持するメディアと非常に近い関係を持っており、良く言われているような汎スラブ主義を信じるような国粋主義者ではなかった。

軍歴、政治的役割 編集

ニコライはニコライ工兵学校ロシア語版で学び、1872年に卒業すると、少尉に昇進し、首都サンクトペテルブルクの歩兵訓練大隊に送られた。 中尉の階級を得た彼は、騎兵訓練中隊に編入された。 1874年、参謀本部ニコライエフ・アカデミーに入学。 1876年、ニコライ参謀本部アカデミーを首席で卒業し、早期に大尉に昇進。 1877年に始まった露土戦争では総司令官を務める父の参謀を務めた。敵の砲火の中、隊列を率いてドナウ川を渡り、兵士たちを鼓舞した。 ニコライはこの戦争で2度戦功を立て、四等聖ゲオルギー勲章と金製武器を授与されている。シプカ峠の襲撃に参加。 1878年、近衛驃騎兵連隊に配属され、中隊長、大隊長を務め、大佐に昇進し[2]、1884年には連隊長に任じられた。ニコライは軍人として順調に出世、1890年11月に第2親衛騎兵師団第2旅団長、同年12月に師団長となった。大公は気骨のある司令官と評価され、また麾下の軍隊の尊敬を集めてもいた。彼は戦闘における指揮官というよりは兵士の訓練教官に向いた性格だった。

部隊は彼を信じ、彼を恐れていた。 彼が下した命令には従うべきであり、拒むことは許されず、ためらいはないことを全員が知っていた... [3]

ニコライは非常に信心深い人物であり、朝でも夜でも食前食後は祈りを欠かすことが無かった。田舎にいるのが大好きで、自分の領地の管理をしたり狩猟をするのを趣味にしていた。

終戦後、ニコライは12年間、近衛驃騎兵連隊親衛隊ロシア語版に所属し、1884年5月6日から連隊長を務める。1890年12月11日から第2衛兵騎兵師団ロシア語版長。 1895年5月6日から年6月8日までニコライは、騎兵総監ロシア語版を務めることになり、中将に昇進する。騎兵総監の地位にあるあいだ、ニコライは将兵の訓練と騎兵学校の改革を行い、騎兵と騎馬をより効率よく供給・確保するよう努めて、成功をおさめることが出来た。1901年、騎兵大将に昇進。ロシアがドイツとの間に結んだ、ビョルケ密約ロシア語版に反対し、その破棄に貢献した[4]。ニコライは日露戦争では司令官の地位を与えられなかったが、これには皇帝ニコライ2世の思惑があった。皇帝はもし皇族を司令官として敗北した場合にロシア帝室の威信が傷つけられるのを避けようとしたのと、国内情勢が不安な時に、忠誠心厚い将軍をそばに置いておきたいと考えたのだった。このため、ニコライ大公は戦場で采配を振る機会を逸した。1905年6月、陸軍と海軍の活動を調整する国家防衛会議ロシア語版(1908年7月に解散)議長に就任し、参謀本部軍事省からの分離を実現した。彼の推薦により、フョードル・パリツィンロシア語版将軍が参謀総長に任命された。国防評議会を率いていたが、しばしばその権限を逸脱し、陸軍大臣や海軍大臣の仕事に絶えず干渉したため、軍隊の管理に不和が生じた。 評議会の廃止に伴い、ニコライと対立していた陸軍大臣ウラジーミル・スホムリノフ将軍の影響力が急激に増大した[5]

1905年10月26日から、国家防衛会議議長職と同時に、衛兵総司令官およびサンクトペテルブルク軍管区ロシア語版総司令官を務め、1909年2月28日より陸海軍将校会議評議員、ロシア帝国親衛隊司令官を務める。

ニコライ大公は1905年のロシア第一革命では極めて重要な役割を果たすことになった。無政府状態が拡大し、ロマノフ王朝の未来が風前のともしびとなりつつある中で、皇帝ニコライ2世はセルゲイ・ヴィッテ伯爵の提案する立憲君主政体への改革案を受け入れるか、軍事独裁体制をしくかの選択を迫られた。大公は皇帝が軍事独裁のクーデタを起こす場合でも、軍隊の忠誠を皇帝につなぎ止めておける唯一の人物であった。皇帝は後者の選択肢を選び、ニコライ大公に軍事独裁官の地位を与えようとした。しかしニコライ大公は独裁官に就任するのを拒否し、おもむろにピストルを取り出すと自分のこめかみに銃口をあて、もしヴィッテ伯爵の改革案を了承しないのならば、この場で自殺すると皇帝を脅したのである。大公の脅しに動揺したニコライ2世は、立憲君主制への改革に踏み出すことを決意した。

1905年から第一次大戦開始まで、ニコライ大公は、親衛隊とサンクトペテルブルク軍管区の総司令官を務めていた。大公は低い出自の者でも分け隔てなく高い地位に取り立てたので、評判を高めた。敗北に終わった日露戦争の屈辱を、大公は自分の部下たちにしっかりと覚えておかせた。

1907年、ニコライ大公はモンテネグロ王ニコラ1世の娘アナスタシア・ニコラエヴナと結婚した。アナスタシアはニコライ大公自身の弟ピョートル大公の妻ミリツァ・ニコラエヴナ大公妃の妹で、ロイヒテンベルク公爵と離婚したばかりだった。この結婚は幸福なものとなった。大公夫妻はどちらも非常に敬虔な正教徒であり、また二人とも神秘主義に傾倒していた。アナスタシアは出身国モンテネグロの反トルコ感情の強い環境で育ったためか、極端なスラヴ民族主義者であった。大公夫妻には子供はいなかった。

第一次世界大戦 編集

 
皇帝ニコライ2世とニコライ大公、最前列にいる人物が皇帝、中央の最も背の高い人物がニコライ大公、1913年
 
ニコライ・ニコラエヴィチ大公(右)、皇帝ニコライ2世(左)、宮内大臣ウラジーミル・フレデリクスロシア語版将軍(中央)(1914年9月)

第一次世界大戦に向けた作戦計画と戦争準備はウラジーミル・スホムリノフとその幕僚たちの責任のもとで行われていたため、ニコライ大公はこの時点では何の役割も担っていなかった。総動員3日前になっても、ロシア軍には指揮官がいなかった[6]。第一次大戦がいよいよ始まる段になって、自分が最高司令官を務める気でいたニコライ2世は、やめてほしいという大臣たちの懇願に根負けし、1914年7月20日、従叔父のニコライ・ニコラエヴィチ大公を帝国軍最高司令官に任じた。

ニコライ大公は57歳になっていたが、まだ戦場で総司令官として采配を振ったことは一度もなかった。彼は自分がこれまで一度も率いたことのない規模の巨大な軍隊を統率する責務を負わされた。 ニコライは大本営であるスタフカをそのまま受け入れたが、ニコライの権限は最近承認された「軍隊の現地管理に関する規則」によって制限された。 スホムリノフは急遽ニコライの最高司令官就任を考慮して書かれた新しい規約を皇帝に提出した。司令官は「陸軍大臣と前線司令官への依存」に陥った。ニコライはドイツオーストリア=ハンガリートルコなど中央同盟国と戦う全ロシア帝国軍の最高責任者だった。大戦開始直後から、ニコライ大公は苦戦を強いられた。 1914年8月16日、ニコライは最初の根本的な改革を行った。彼はポズナンへの攻勢を中止し、ガリツィアの戦いロシア語版の勝利的終結のために利用可能なすべての兵力を指示した。 戦いの勝利はロシア軍の士気を高めたが、しかし、アレクサンドル・サムソノフ将軍の軍隊は、タンネンベルクの戦いで第1軍と第2軍との連携がうまくいかなかったために、東プロイセンで壊滅的な敗北を喫した。しかし、フランスフェルディナン・フォッシュ元帥や多くの軍事科学研究者はニコライを「最新の軍事技術の最も顕著な現れ」と肯定的に評価することが多い[7]

一方で続いて起きたヴィスワ川の戦い英語版ウッチの戦い英語版では、ロシア軍が勝利を得た。大勢のロシア将軍たちが様々な作戦プランを決めていく場において、ニコライ大公の役割は限られたものとなった。大公とその参謀からは勝利する公算の大きそうな、首尾一貫した作戦計画が出されることはなかったが、大公は個人のレベルでは将官にも一般兵士にも好かれていた。

また、戦争初年度はロシアの主要国家機構の並立が問題となり、具体的には最高司令部と陸軍省の関係である。戦前に急遽採択された「戦時における軍隊の現場管理に関する規則」によって戦時体制は維持されていたが、この規則には最高司令部と陸軍省の関係や、他の国家機関との関係が規定されていなかった。 最高司令官であるニコライと陸軍大臣スホムリノフが互いに嫌っていたため、すぐに軍事問題で二重の力が生じた。また、最高司令部と閣僚会議との間に協力関係はなく、その結果、軍隊の補給に深刻な危機が生じた。 ニコライの地位は皇帝にのみ従属するため、皇帝を通じてのみ国家機関と交流するシステムであり、多くの非難の声が上がった。

ニコライ大公は軍事指導者というより官僚に近い性格だったようで、幅広く戦略的な視点や巨大なロシア全軍を率いる者に求められる冷酷さを持ち合わせていなかった。彼の司令部は、沢山の敗北を喫し大勢の戦死者を出しているにもかかわらず、戦時とは思えないほど平穏な雰囲気であった。このまま大公に任せてもロシア軍の苦境は好転しないと考えたらしい皇帝は、自ら戦争の最高責任者を引き受けようと決意した。このニュースは政府および民衆に混乱を引き起こした。アレクセイ・ポリワノフ将軍は閣僚会議で、「政府は、最高司令官である大公を、敵に対抗するわが軍の指導者として揺るぎない信頼を置いていることをロシア全土に宣言する」と述べた。閣僚たちはニコライ2世に最高司令官を更迭してないよう訴えた[8]。1915年3月22日、大公はプシェムィシル攻囲戦英語版に勝利して二等聖ゲオルギー勲章を授与された。しかしその5か月後の8月21日、ロシア軍が戦略的撤退を行った際に、皇帝は大公を解任し自ら最高司令官に就任した。

ミャソエドフ事件 編集

大公は自らの能力を過大評価した結果、数々の重大な軍事的ミスを犯し、関連する非難を自分からそらそうとしたため、ドイツ恐怖症やスパイ恐怖症を煽ることになった。そのような最も重要なエピソードのひとつが、ニコライ大公がドイツのスパイとされたセルゲイ・ミャソエドフロシア語版大佐を処刑した事件である。(ミャソエドフ事件)前線司令官は裁判官の意見の不一致により評決を承認しなかったが、ニコライは「とにかく吊るせ!」と豪語し、証拠不十分にもかかわらず、軍法会議は1915年3月18日、ミヤソエドフに死刑判決を下した。この事件では、彼の知人19人が逮捕され、彼の妻までもがスパイ容疑で告発された。

カフカースとクリミア 編集

 
ロシア軍が占領したペレミシル要塞ロシア語版の要塞を視察する皇帝ニコライ2世と最高司令官ニコライ・ニコラエヴィチ大公(1915年4月11日)

大公は最高司令官職を解かれてまもなく、カフカース地方の総司令官および総督に任じられた(それまでこの地域で采配を振っていたのはイラリオン・ヴォロンツォフ=ダーシュコフロシア語版伯爵だった)。公式にはニコライ大公が総司令官だったものの、オスマン帝国との戦いを担うカフカース方面軍を実質的に指揮していたのはニコライ・ユデーニチ将軍であった。カフカース総督府配下でロシア帝国の支配下に置かれていた現ジョージアの首都トビリシには、参謀総長ボルホヴィチノフロシア語版将軍をトップとする陸軍参謀本部の組織と後方部が残っており、大公の前任者であるヴォロンツォフ=ダーシュコフ伯爵の下で設立され、ニコライ・ニコライエヴィチの下でも維持されていた。大公の総司令官在職中に、カフカース方面のロシア軍は遠征軍を派遣し、遠征軍はペルシアを通過して南側にいたイギリス軍と合流した。1916年、ロシア軍はエルズルムの戦い英語版に勝利してエルズルム要塞、トレビゾンド港、エルズィンジャンを占拠した。トルコ軍はさらに攻勢をかけ、両軍はヴァン湖周辺で一進一退を繰り返したが、決着はつかなかった。

総督在任中、カフカース地方にゼムストヴォを導入することが検討され、そのために1916年春にトビリシで地方会議が開かれた。

1916年5月11日、セバストポリ市議会の要請により、ニコライ2世はニコライ大公に「セバストポリ市名誉市民」の称号を与えることを承認した[9]

1917年、ニコライ大公はグルジアから占領地域まで鉄道を敷設し、人員物資の補給ルートを万全にしてさらなる攻勢をかけようとした。しかし1917年3月に皇帝ニコライ2世が退位すると、ロシア帝国軍は徐々に解体し始めた。

帝政崩壊後 編集

 
老境のニコライ大公

1916年11月、ニコライ大公はニコライ2世と話すためにモギリョフの最高司令部に呼び出された。12月、ニコライ2世は退位し、全ロシア皇帝はニコライ大公が占めることになると思われていた。1917年1月1日に即位するという提案は、ゲオルギー・リヴォフ公を議長とする会議に参加した、全ロシア都市連合カフカース部議長の アレクサンドル・ハチソフロシア語版を通じてニコライ大公に伝えられた。ハチソフの回想によれば、ニコライは考える時間が欲しいと言ったが、2日後、暴力的なクーデターは広い支持を受けないだろうと言い、皇帝戴冠を拒否した[10]

ペトログラードでの2月革命の発生時、ニコライ大公は任地のカフカースにいた。革命の出来事をバトゥミで知り、黒海艦隊司令官のアレクサンドル・コルチャーク提督に会いに行った。

大公は3月7日、兄のピョートル・ニコラエヴィチ大公と息子のロマン・ペトロヴィチ皇子を伴ってトビリシを出発し、最高司令官就任のため3月11日にモギリョフの最高司令部に到着した。 しかし、臨時政府首班のリヴォフ公から最高司令官就任は不可能であるとの臨時政府の決定を伝える書簡を受け取り、ミハイル・アレクセーエフ将軍と会談した後、最高司令官就任を拒否した。

大公は退位直前の皇帝が最後に行った決定により、ロシア帝国軍最高司令官に復帰を命じられたため、大本営のおかれたモギリョフに現れた。しかし大公が到着して24時間も経たないうちに、1917年3月11日の陸海軍階級に関する命令により、ニコライ大公は臨時政府首班のリヴォフ公により解任された。3月21日、彼の軍事階級は剥奪された[11]

ニコライは解任後の2年間を弟のピョートル・ニコライエヴィチが所有していたクリミアドゥルベル邸ロシア語版に移った。過ごしたが、自宅軟禁を政府から命じられていた時期もあり、十月革命1918年のドイツ軍によるクリミア占領ロシア語版の間、大公は誰とも連絡を取らず、この領地で暮らし、政治的役割を果たすことはほぼ無かった。当時同じくクリミアにいたピョートル・ヴラーンゲリの回想録によると、ドイツ軍によるコレイズウクライナ語版占領の翌日、ドイツ軍司令部の代表がダルバーに到着した。ニコライは訪問者たちに、「私が捕虜として、君たちが私に面会を希望するのであれば、それに応じる用意はあるが、単なる訪問であれば、受け入れることはできない」と伝えた。将校たちから衛兵が必要かと尋ねられた大公は、我が軍の衛兵を編成するのが好ましいと答え、ドイツ軍はそれを許可した[12]

一時は南ロシアで活動していた白軍の総司令官にニコライ大公を推す声も挙がったが、アントーン・デニーキンを始めとする白軍の指導者たちは、もし元皇族を最高司令官に推戴すれば、白軍内の左派勢力が離反しかねないと心配していたため、ニコライの復帰は実現しなかった。赤軍がクリミアに迫ってきた1919年4月、ニコライは妻アナスタシアを伴い、弟一家とともにイギリス海軍戦艦マールバラ」号に乗り込んでロシアを脱出した。

1922年8月8日、ニコライはアムール地方を支配していたミハイル・ディテリフス将軍の開催したゼムスキー・ソボルにより、「全ロシアの皇帝」に推戴された。もっとも、ニコライは3年前に出国していたためその場には居合わせなかった。その2カ月後、アムール地方は赤軍に制圧された。

亡命後 編集

ニコライは義弟のイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の賓客としてジェノヴァにしばらく身を置いた後、妻を連れてパリ郊外にある小さな城館に移り住んだ。弟のピョートルも同居した。1923年7月から、ニコライと妻のアナスタシアは、パリから20キロ離れたヴァル=ド=マルヌ県のショワニー城にあるカントリーハウスに居を構えた。彼はフランス秘密警察の保護下に置かれており、また信頼のおける何人かのコサック退役兵も大公の身辺を警護していた。ニコライ大公は反ソヴィエトの君主制支持運動の中心人物であり、ピョートル・ヴラーンゲリとともにロシア全軍連合を率いていた。一部の歴史家によれば、実質的な指導力は発揮されなかったが[13]、逆の見方をする者もいる[14]。全軍連合はソビエト・ロシアに諜報員を送り込むことを計画し、実際に何人かのスパイを送り込むことに成功したが、この任務を引き受けたイギリス人の有名スパイ、シドニー・ライリーは後にソヴィエトに摘発されて処刑された。ソビエト秘密警察の幹部たちは報復にニコライ大公を誘拐しようと試みたが、この作戦は失敗に終わった。1927年には、君主制支持者組織はモスクワのルビャンカ刑務所に爆弾を仕掛けることにも成功した。

一部の白軍勢力の間では、ロシア王位継承の僭称者と見なされていたが、彼自身それを自称することはなかった。ファシズム勢力を関係を持っていたキリル・ウラジーミロヴィチが全ロシア皇帝の継承を宣言したが、ニコライは断固として拒否し、君主制の問題は「祖国であるロシア国民が」決めることだと主張した。ニコライを亡命皇帝として宣言しようとするいくつかのグループの試みは、ロシア移民からの明確な支持を得られず、教会や親族からも完全には承認されなかった。

健康状態が悪化したため、1928年10月にアンティーブに移ったが、ニコライは1929年1月5日、避寒のために訪れていた南仏のリヴィエラで、老衰のために亡くなった。心臓の急激な衰弱のため、死はほとんど即死だった。遺体には、警護の将校、カンヌに幹部がいたアタマン連隊の将校とコサック、これらの部隊に所属していない将官や将校が担いだ[15]

葬儀はカンヌの聖ミカエル大天使教会ロシア語版で、セラフィム大司教により、フランスの軍高官の参列のもとで執り行われた[16]。棺の前にはロシア軍の高官で構成された儀仗兵が立っていた。

彼は同じ教会の地下墓地に埋葬された。1935年、彼の妻が彼の隣に埋葬された。

犬狩りの布教 編集

1887年、ニコライ大公はトゥーラ県ロシア語版ペルシノ村ロシア語版の朽ち果てた領地を購入し、そこにペルシノ大公猟場を設立した。近くにルリコヴォ駅ロシア語版(現在は廃駅)が建設され、高位の賓客が来訪するようになった。

ペルシノでは繁殖が盛んに行われ、ペルシノのロシア猟犬は「模範的」とされ、子犬は外国人に広く買われた。

この犬種を世界に広めたのはペルシノ狩りであり、革命後もその保存に貢献したと考えられている[17]

脚注 編集

  1. ^ Гагкуев Р. Г., Цветков В. Ж., Голицын В. В. Генерал Кутепов. — М.: Посев, 2009. — 590 с. — ISBN 978-5-85824-190-4, С. 193
  2. ^ Исмаилов Э. Э. Золотое оружие с надписью «За храбрость». Списки кавалеров 1788—1913. — М., 2007. — С. 293
  3. ^ Базанов С. Н. Великий князь Николай Николаевич Младший. Документы; в сборнике Великая война. Верховные главнокомандующие: сб. ист.-лит.произв / Сост., науч. ред., предисл. и коммент. Р. Г. Гагкуева. — М.: Содружество «Посев», 2015. − 696 с. — (Голоса истории). — С. 549.
  4. ^ НИКОЛА́Й НИКОЛА́ЕВИЧ : [арх. 3 декабря 2022] // Николай Кузанский — Океан. — М. : Большая российская энциклопедия, 2013. — С. 12-13. — (Большая российская энциклопедия : [в 35 т.] / гл. ред. Ю. С. Осипов ; 2004—2017, т. 23). — ISBN 978-5-85270-360-6.
  5. ^ Базанов С. Н. Великий князь Николай Николаевич Младший. Документы; в сборнике Великая война. Верховные главнокомандующие: сб. ист.-лит.произв / Сост., науч. ред., предисл. и коммент. Р. Г. Гагкуева. — М.: Содружество «Посев», 2015. − 696 с. — (Голоса истории). — С. 545.
  6. ^ Н. Н. Головин «Верховный главнокомандующий Великий князь Николай Николаевич», в сборнике Великая война. Верховные главнокомандующие: сб. ист.-лит.произв./сост., науч. ред., предисл. и коммент. Р. Г. Гагкуев.-М.:Содружество «Посев», 2015. −696 с. : ил. -(Голоса истории), стр. 483
  7. ^ Н. Н. Головин «Верховный главнокомандующий Великий князь Николай Николаевич», в сборнике Великая война. Верховные главнокомандующие: сб. ист.-лит.произв./сост., науч. ред., предисл. и коммент. Р. Г. Гагкуев.-М.:Содружество «Посев», 2015. −696 с. : ил. -(Голоса истории), стр. 485
  8. ^ Н. Н. Головин «Верховный главнокомандующий Великий князь Николай Николаевич», в сборнике Великая война. Верховные главнокомандующие: сб. ист.-лит.произв./сост., науч. ред., предисл. и коммент. Р. Г. Гагкуев.-М.:Содружество «Посев», 2015. −696 с. : ил. -(Голоса истории), стр. 489—494
  9. ^ Великий князь оказался почетным гражданином Севастополя”. 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月8日閲覧。
  10. ^ [militera.lib.ru/memo/russian/spiridovich_ai/03.html Спиридович А. И. Великая Война и Февральская Революция 1914—1917 гг.]
  11. ^ Приказ по военному ведомству 21.03.1917 № 155.
  12. ^ Зарубин А. Г., Зарубин В. Г. (2008). Без победителей. Из истории Гражданской войны в Крыму (1-е 800 экз ed.). Симферополь: Антиква. ISBN 978-966-2930-47-4
  13. ^ Серёгин А.В (2016). "Борьба за руководство в российской военной эмиграции в Европе в 1920-х годах. Анализ историографии" (1-4 (43)) (Международный научно-исследовательский журнал ed.): 91–96. ISSN 2303-9868. 2021年11月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。 {{cite journal}}: Cite journalテンプレートでは|journal=引数は必須です。 (説明)
  14. ^ Смирнов С. В. Раскол в среде русских офицеров Генерального штаба в Маньчжурии во второй половине 1920-х годов. // Военно-исторический журнал. — 2019. — № 1. — С.72—76.
  15. ^ «Сообщение» № 20 Русского Обще-Воинского Союза 10/23 февраля 1929 г.
  16. ^ Памяти Великого Князя Николая Николаевича. // «Церковныя Вѣдомости» (Архиерейского Синода, Королевство С. Х. С.). февраль — июнь 1929 г., № 3—12 (166—175), стр. 21.
  17. ^ Русская псовая борзая. // Мой друг. Собака. № 1. 2013. с. 10 — 17.

参考文献 編集

  • "A Peace To End All Peace", David Fromkin, Avon Books, New York, 1990
  • "The Flight Of The Romanovs, A Family Saga", John Curtis Perry and Constantine Pleshakov, Basic Books, New York, 1999
  • "Encyclopaedia Britannica", Vol. 16, pp. 420–421, Chicago, 1958
  • " A People's Tragedy, The Russian Revolution 1891-1924", Orlando Figes, Pilmico, London, 1997