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[[永正]]元年([[1504年]])、父尹繁より九州探題職を譲り受けたとされる。その後の天文2年([[1533年]])に長年の庇護者であった[[大内氏]]を裏切り、逆に長年の宿敵であった[[少弐氏]]に通じた為、大内軍の攻撃に晒された。翌天文3年([[1534年]])、大内軍によって肥前朝日山城を落とされ自害した。義長の死によって、渋川氏嫡流は滅亡し、同じく九州探題も途絶することとなった。
 
== 渋川尭顕 ==
'''渋川 堯顕'''(しぶかわ たかあき、生年不明 - [[天文 (日本)|天文]]3年([[1534年]])?)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]前期の[[武将]]。[[九州探題]]とされる人物。
 
義長の弟とも従兄弟とも甥ともいわれるが、その名は郷土史にのみ現れる。天文3年([[1534年]])、義長が戦死すると九州探題を称して挙兵し、同年中に筑前姪浜の興雲山で大内勢に敗れ戦死したと伝わる。
 
実在は不明であるが、[[福岡県]][[福岡市]][[西区 (福岡市)|西区]]姪浜地区にある「探題塚」は尭顕を祀るものとされる。
 
==関連項目==