「プファルツ=ズルツバッハ」の版間の差分

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== プファルツ=ズルツバッハ ([[1614年]] - [[1742年]]) ==
[[1614年]]の[[フィリップ・ルートヴィヒ (プファルツ=ノイブルク公)|プファルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒ]]の死の結果、その息子の[[アウグスト (プファルツ=ズルツバッハ公)|アウグスト]]が新たにプファルツ=ズルツバッハを起こした。彼の地は[[バイエルン選帝侯]]と二分された。西方は帝国の都市である[[ニュルンベルク]]に接し、東方は[[ボヘミア王国]]に接した。アウグストの跡を継いだ[[クリスティアン・アウグスト (プファルツ=ズルツバッハ公)|クリスティアン・アウグスト]]は寛容な君主で、個々の宗教の信仰を認めたり、[[シムルタネウム]]を導入したり、[[1666年]]に[[ユダヤ人]]が定住するのを認め、印刷業を設立した。クリスティアン・アウグストの後継者達の統治の間、プファルツ=ズルツバッハが[[カール3世フィリップ (プファルツ選帝侯)|カール3世フィリップ]]の死ぬことで[[プファルツ選帝侯]]を継承するのは明かであった。しかし、それは[[1742年]]の[[カール・テオドール (プファバイエ選帝侯)|カール・テオドール]]の代に訪れた。
 
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|[[クリスティアン・アウグスト (プファルツ=ズルツバッハ公)|クリスティアン・アウグスト]]||[[1632年]] - [[1708年]]||
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|[[テオドール・オイスタッハ (プファルツ=ズルツバッハ公)|テオドール・オイスタッハ]]||[[1708年]] - [[1732年]]||
]]||[[1708年]] - [[1732年]]||
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|[[ヨハン・クリスティアン (プファルツ=ズルツバッハ公)|ヨハン・クリスティアン]]||[[1732年]] - [[1733年]]||
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|[[カール・テオドール (プファルツ選帝侯)|カール・テオドール]]||[[1733]] - [[1742]]||[[プファルツ選帝侯]]; [[バイエルン選帝侯]]
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