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'''佐世 元嘉'''(させ もとよし [[天文 (元号)|天文]]15年([[1546年]]) - [[元和 (日本)|元和]]6年(1620年))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]。[[尼子氏]]・[[毛利氏]]の家臣。[[石見国|石見]]守と称す。[[佐世清宗]]の子。兄に[[佐世正勝]]。子に[[佐世正景]]・[[佐世正量]]。
 
== 生涯 ==
父と共に[[尼子晴久]]・[[尼子義久]]に仕えていたが、[[永禄]]9年([[1566年]]の[[毛利元就]]による[[月山富田城の戦い]]に、父と共に毛利氏に降伏。その家臣となった。この時に弟の佐世大二郎は城内に取り残され、尼子氏に殺害された。
 
毛利氏への降伏後、尼子氏旧臣であった元嘉も毛利元就や[[毛利輝元]]に譜代家臣との区別無く重用された。また、その期待に応えて活動した。[[天正]]20年([[1592年]]から始まる[[豊臣秀吉]]の[[朝鮮出兵]]では、輝元が肥前[[名護屋城]]に滞陣している間は、留守となっている毛利領の政治を任されている。[[慶長]]5年([[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]に際しても、[[広島城]]の留守居役を務めるなどしている。
 
防長移封後も、毛利氏に従い、[[萩藩]]の重臣となった。後に子のなかった兄の跡を嫡男の正景が継いで、佐世氏の当主となった。