「哀帝 (漢)」の版間の差分

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政治面では、失敗に終わったが王侯や一般人が所有する田地や奴婢の制限を検討し、[[任子]]の令を廃止するなどの改革を計画した。また丞相を廃止し[[三公]]制へ移行し、後の新・後漢で実施された三公制の祖形を生み出している。また国勢の衰退を自覚し、自ら「陳聖劉太平皇帝」を称し天命を更新しようとしたが2ヶ月で元に戻している。
 
は即位後に王莽を罷免、[[丞相]]である[[朱博]]、[[王嘉]]を自殺させるなど臣下に対し厳しい態度で臨み、武帝・宣帝の手法を採用しようとしたが、前1年([[元寿 (漢)|元寿]]2年)6月、25歳で死去。[[嗣子]]が無かったために、崩御に際し皇帝璽綬を董賢に託したが、璽綬は太皇太后王氏、[[王莽]]らにより奪われ、政治の実権は王氏が再び掌握することとなった。なお璽綬を奪われた董賢とその妻はその日のうちに自殺した。
 
男色を意味する「断袖」という語は、董賢と一緒に寝ていた哀帝が、哀帝の衣の袖の上に寝ていた董賢を起こさないようにするため衣を切って起きた、という故事に基づく。