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笑太夫 (会話 | 投稿記録)
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{{武士/開始|毛利斉広}}
{{武士/時代|[[江戸時代]]後期}}
{{武士/別名|([[幼名]]);保三郎}}
{{武士/官位|従四位下、左近衛権少将}}
{{武士/戒名|([[法号]])崇文院殿天常端誠大居士}}
{{武士/父母|父:[[毛利斉熙]]/実母;池上氏/養父:[[毛利斉元]]}}
{{武士/妻|正室:[[徳川家斉]]の二十女・貞惇院([[和姫]])/側室:本多氏(勇信院)}}
{{武士/子|実子;都美子([[毛利敬親]]正室、浄華院)/養子[[毛利敬親]]}}
{{武士/終了}}
'''毛利 斉広'''(もうり なりとう、[[文化 (元号)|文化]]11年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]([[1814年]][[7月3日]])- [[天保]]7年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]([[1837年]][[2月4日]]))は、[[長州藩]]の第13代藩主。
第11代藩主・[[毛利斉熙]]の次男で、第12代目藩主・[[毛利斉元]]養嗣子。母は池上氏。。正室は12代将軍・[[徳川家慶]]の妹にあたる。[[諱]]は崇広→斉広。
 
第11代藩主・[[毛利斉熙]]の次男。母は池上氏。正室は[[徳川家斉]]の二十女・貞惇院([[和姫]])。12代将軍・[[徳川家慶]]の義弟にあたる。側室に本多氏(勇信院)。子に都美子([[毛利敬親]]正室、浄華院)。官位は従四位下、左近衛権少将。幼名は保三郎。初名は崇広。
 
== 経歴 ==
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3歳年下の異母弟の毛利信順がいたが、信順よりもさらに年下で先代藩主の子である[[毛利敬親]]を将来、側室から出生した娘の婿にする前提で養子にするように遺言したために敬親が家督相続する。
 
法号:崇文院殿天常端誠大居士。墓所:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[愛宕 (東京都港区)|愛宕]]の[[青松寺]]。萩市椿の[[大照院]]。
 
{{長州藩主|13代|1836}}