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茴香 (会話 | 投稿記録)
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== 略歴 ==
父為教28歳の頃に生まれる。為教は非参議の臣で、歌道においては宗家の兄[[二条為氏]]と不和で対抗意識を持っていたことが指摘されている。為兼は幼少時の初学期から為氏の子[[二条為世]]とともに祖父[[藤原為家]]から[[和歌]]を学ぶ。幼少時から主家の西園寺家に出仕して[[西園寺実兼]]に仕え、「為兼」の名は実兼の[[偏諱]]であると考えられている。健治2年(1276年)には亀山院歌会に参会し、為兼和歌の初見となっている。
 
[[1280年]]([[弘安]]3年)東宮煕仁親王(後の[[伏見天皇]])に出仕し、東宮及びその側近らに和歌を指導して[[京極派]]と称された。伏見天皇が践践した後は政治家としても活躍したが、[[持明院統]]側公家として皇統の迭立に関与したことから、[[1298年]]([[永仁]]6年)[[佐渡国]]に配流となった。[[1303年]]([[嘉元]]元年)に帰京が許されている。[[勅撰和歌集]]の撰者をめぐって二条為世と論争するが、[[院宣]]を得て[[1312年]]([[正和]]元年)『[[玉葉和歌集]]』を撰集している。翌[[1313年]](正和2年)[[伏見上皇]]とともに[[出家]]し、法号を蓮覚のちに静覚と称した。