「覚猷」の版間の差分

1053-1140, 平安時代後期の天台僧
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Shimoxx (会話 | 投稿記録)
平安後期に日本仏教界の頂点を極めた人物。漫画の祖として有名。
(相違点なし)

2005年10月24日 (月) 18:32時点における版

覚猷かくゆう1053年天喜1)-1140年保延6))は、平安時代後期の天台僧。鳥羽僧正(とばそうじょう)と世に呼ばれ、大寺社の長を歴任した高僧であるのみならず、絵画にも精通し、鳥獣人物戯画などの作者に擬せられている。そのユニークでユーモアあふれる作風から、漫画の始祖とされることもある。

経歴

覚猷は、1053年源隆国の第9子として出生。若年時に出家し、園城寺にて天台仏教・密教を修めながら、画技にも長じるようになった。ながらく園城寺法輪院に住し、密教図像の集成と絵師の育成に大きな功績を残したほか、自らの画術研鑽にも努めた。

四天王寺別当、法成寺別当、園城寺長吏など大寺社の要職を歴任する間、1032年には僧正へ、1034年には大僧正へ任じられた。1038年、47世天台座主となったが3日で退任し、厚い帰依を寄せていた鳥羽上皇が住む鳥羽離宮の証金剛院へ移り、同離宮の護持僧となった。以後、鳥羽僧正と呼ばれた。

保延6年(1140)9月15日、覚猷は90歳近い高齢で死去した。その際、弟子から遺産分与に関する遺言を求められ、「遺産の処分は腕力で決めるべし」と遺したと伝えられている。

覚猷の人物と戯画

覚猷の画は、ユーモアと風刺精神に富んでおり、戯画と呼ばれる。遺言の逸話が示すように、覚猷自身、笑いのセンスに長けた人物のようであり、『宇治拾遺物語』にも覚猷のいたずら好きで無邪気な人柄が描かれている。また、覚猷は仏教界の要職を歴任しながら、当時の仏教界と政治のあり方に批判的な眼を持っていたともされている。

国宝『鳥獣人物戯画』、『放屁合戦』、『陽物くらべ』などが伝鳥羽僧正作とされている。いずれも一見明るい笑いの画であるように見えながら、深い批判精神を含む作品群であり、鳥羽僧正の作に擬せられている。ただし、美術史学上、覚猷をこれらの絵画の作者とする確証はないが、その一方で、覚猷が作者の一人である可能性も否定されていない。

関連項目