「キム・ウォーウィック」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m WP:BOTREQ#全豪オープン各年記事のリンク修正依頼 using AWB |
|||
37行目:
|ダブルス最高=10位
}}
'''キム・ウォーウィック'''('''Kim Warwick''', [[1952年]][[4月8日]] - )は、[[オーストラリア]]・[[ニューサウスウェールズ州]][[シドニー]]市出身の元男子プロ[[テニス]]選手。[[1980年]]の[[全豪オープン]]男子シングルス準優勝者。[[1970年代]]後半から[[1980年代]]前半にかけて、オーストラリアを代表するダブルスの名手として活躍し、[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]で男子ダブルス4勝、混合ダブルス2勝を挙げた。[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーではシングルス3勝、ダブルス26勝を挙げたが、準優勝が[[1980年全豪オープン
ウォーウィックは少年時代、オーストラリアの名コーチであるビクトル・エドワーズの“秘蔵っ子”として知られた。エドワーズは[[イボンヌ・グーラゴング]]を育てたコーチであり、ウォーウィックとグーラゴングは[[1972年]]に混合ダブルスでペアを組んだ。2人は[[1972年全仏オープンテニス|全仏オープン]]で地元[[フランス]]ペアのジャン・クロード・バークレー&[[フランソワーズ・デュール]]組を 6-2, 6-4 で破り、続く[[1972年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]でも[[イリ・ナスターゼ]]&[[ロージー・カザルス]]組との決勝まで進出したが、ナスターゼとカザルスには 4-6, 4-6 で敗れた。その後しばらく低迷期があったが、[[1976年全仏オープンテニス|1976年全仏オープン]]混合ダブルスで[[イラナ・クロス]]([[南アフリカ共和国|南アフリカ]])とペアを組み、4年ぶり2度目の優勝を果たす。ウォーウィックの4大大会男子ダブルス初優勝は、[[1978年全豪オープン
それから2年後、[[1980年全豪オープン
4年後の[[1985年]]、ウォーウィックとエドモンドソンは[[1985年全仏オープンテニス|全仏オープン]]男子ダブルスで初優勝を飾り、このペアで4大大会3勝目を挙げた。2人は決勝で[[シュロモ・グリックスタイン]]([[イスラエル]])&[[ハンス・シモンソン]]([[スウェーデン]])組に 6-3, 6-4, 6-7, 6-3 で競り勝った。ウォーウィックにとっては、[[1972年全仏オープンテニス|1972年]]と[[1976年全仏オープンテニス|1976年]]の混合ダブルス優勝以来、9年ぶり3個目の全仏オープンタイトルになる。ところが、半年後の[[1985年全豪オープン
キム・ウォーウィックは「[[ジャパン・オープン・テニス選手権|ジャパン・オープン]]」で何度か[[日本]]を訪れたこともあり、[[1977年]]の大会で単複の決勝進出があった。ダブルスでは同じ[[オーストラリア]]の[[ジェフ・マスターズ]]とペアを組んで優勝したが、シングルス決勝では[[マニュエル・オランテス]]に敗れている。彼のテニス経歴を通じて、ダブルスでは[[1987年]]まで優勝記録があり、通算「26勝」を獲得した。“エドワーズの秘蔵っ子”からスタートしたウォーウィックは、[[1989年]]に37歳で現役を引退した。
|